『ヴィーナスの誕生』視覚文化への招待/岡田温司

2007/4/15-4/24
「ウィントとパノフスキーの解釈は、いわゆる「双子のヴィーナス」にまつわる新プラトン主義の理論にかかわるもので、ボッティチェッリの二枚のヴィーナスをこの理論に結びつけるという点で、基本的に一致しています。プラトンにさかのぼり、フィチーノによって敷衍された考え方によれば、ヴィーナスには、神聖で超越的な愛をつかさどる「天上のヴィーナス」と、世俗的で人間的な愛をつかさどる「地上のヴィーナス」の二人がいるというのです。当然ながら、豊穣な《春》の女神は「地上のヴィーナス」として、誕生したばかりの清らかな裸体の女神は「天上のヴィーナス」として解釈されることになります。「地上のヴィーナス」を豪華な衣装で、「天上のヴィーナス」を無垢な裸体で描き出した類例として、必ず引き合いに出されるのは、ティツィアーノの名高い傑作《聖愛と俗愛》です。この考え方によれば、もちろん天上の愛は地上の愛よりも尊いものですが、だからといって地上の愛は無用の長物だというわけではありません。人間には、地上の愛を天上の愛へと高める能力が生まれながらに具わっているのであり、双子のヴィーナスがいてこそ、愛は完璧なものとなるというわけです。」(63)
ボッティチェッリの神話画が、民衆的、フォークロア的、祝祭的な想像力にはぐくまれていたことは、否定できない事実であるとわたしも考えています。その絵がわたしたちに開示しているのは、難解でお説教じみた新プラトン主義の堅苦しい観念の世界というよりも、呼吸し鼓動しているダイナミックな都市の祝祭世界なのです。その絵にちりばめられた多彩な寓意も、書物のなかに閉じ込められていたものではなくて、さまざまな扮装や装置の形をとって、現実に町の通りを練り歩いていたものだったのです。」(117)