『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』 澁澤龍彦 2/2

 著者の最後のエッセイ集らしく、この本には追悼文も多い。以下に引用するのは、全て亡くなった方への思い出を綴ったものである。

回想の足穂

 足穂の飛行機好きは有名だが、足穂の飛行機がかならず飛ばない飛行機、あるいは落っこちなければいけない飛行機であったのと同様、ともすると足穂の少年愛も、実行を伴わない少年愛ではなかったろうかという気がする。だから、この『少年愛の美学』を実践的なホモセクシャルのすすめだなどと思ったら、それこそとんでもない見当違いであって、「ときわの山の岩つつじ」ではないが、むしろ官能の歓びは断念にあるとさとったほうが足穂の真意に沿っていよう。「地上とは思い出ならずや」というのが足穂の基調音であるから、一切のことはすでに終わっているのであり、少年愛の基調をなすA感覚でさえ、すでに感覚の感覚、すなわち前セックス的エロスでしかありえないのだ。宇宙的ノスタルジアのごときもの、といい変えてもよろしかろう。(276-277)

たのしい知識の秘密――林達夫追悼

「彼(林達夫)はその学問を書かないことによってそれを証明するという逆手をとるほかなかった」と高橋英雄が適切に述べているが、こうなると本を書かないということは、本人の意思というより、林さんの学問の要請だとしか思えなくなってくる。あれほど文章のうまいひとが、この理不尽な要請に従っているのはさぞ辛いことだったろうな。一瞬、そんな思いが頭をよぎったりする。しかし、この判断はたぶん間違っていよう。書かないということを、私たちはどうしてもネガティヴなことのように考えがちであるが、必ずしもそう考えるにはおよばないのだ。書かなければ書かない分だけ、書くこととは別のポジティヴなものが人間の生活の中にきっと突出する。私には絶対に真似のできないことだが、それを信ずることができないほど、私の精神生活は貧しくないという自信だけはある。(288-289)

私のバルチュス詣で

 バルチュスの少女は必ずしも性的ではない。しかし作者のたくらみは、性的な存在に達するまでの、意識と無意識の間にある少女を、手をかえ品をかえして描いているのである。……
 完全に反省意識に目覚めてしまった少女は、もう少女ではなくて一個の女であろう。そういう女の発散するエロティシズムには、バルチュスは用はないのである。さりとて純粋客体としての少女は表現不可能である。視線を介入させなければ、エロティシズムの劇は発動しないからだ。しかし発動させてしまっては、これもおもしろくない。バルチュスの絵の中には、したがって、うしろ向きの人間がよく登場する。(294)