アレント・公共性の復権/川崎修

2007/3/11-4/7
アレントによれば、東南欧における少数民族保護の失敗に終わった試みは、国民国家の機能をきわめて明瞭に表現したという。すなわち、「国家の市民たることとナショナルな帰属とは不可分であること、同じナショナルな起源を持つ者のみが法律の保護を真に保障されていること、そして、他のナショナリティのグループは完全に同化され民族的起源が忘れられるようにならないうちは例外法規によって保護されるしかない」ということを明らかにしたというのである。(中略)すなわち、「ネーションが国家を征服してしまった」ということである。」(118-119)
全体主義プロパガンダは、「常識」が提供するリアリティ(現実感覚)――それは他者との交流、共通する世界の共有によって支えられている――をアトム化によって失ってしまった大衆に、いわばそれに代位するもの、リアリティの代用品としての「首尾一貫性」を提供したのだった。」(157)
全体主義においては、政治的領域のみならず、私的領域や社会的領域においても、テロルによって支配され、徹底的な孤立化が貫かれているのである。アレントは、人間のこうした完全な孤立無援状態を「見捨てられていること」と呼んでいる。」(169)
「階級社会においては、画一主義が広がっていたとしても、「社会」が要求する画一化のあり方は、それぞれの階級において異なっており、したがって、社会全体から見れば、必ずしも全般的な画一化が起きていることにはならない。その意味では、階級社会は、それ自身の内に画一主義的要素をはらみつつも、まさにそれゆえに、社会全体にとっては画一主義にたいする一定の防壁として機能するということになりうるのである。」(237)
「西洋の政治思想・政治哲学は、政治本来のあり方を歪曲し、政治にたいして哲学の尺度を押しつけてきた。この伝統にたいしてアレントは、まさに政治思想の伝統の解体によって本来の政治の復権を図ろうとする。政治哲学が目指してきた、「(理性の)真理」による「意見」の制圧を反転して、もう一度政治から「(理性の)真理」の専制を排除して、「意見」の復権を求める。公的領域の保持と複数性の擁護は、まさにこのことの具体的現われだといえよう。」(326)