『精神の危機』 ヴァレリー

2012/9/9読了
1910〜40年代に発表された論文を収めた内容であるが、社会、経済、文明、政治に対する洞察の射程は、間違いなく現在にまで及んでいる。
過剰な商品・サーヴィス・メディア、明らかな知性の衰退、欧州の地位の低下、先進国における独裁的政治家の台頭。現代におけるこれらの問題の根を、20世紀初頭のヨーロッパ社会にすでに見出しているところがすごい。
下記にまとめた社会論、文明論のほか、氏の出自をノスタルジックに記述したエッセイ『地中海の感興』も印象深い。

精神の危機

近代主義の限界にある1914年のヨーロッパ。「これほどのカーニヴァルが可能となり、それが人間性の最高の叡智にして勝利の形として確立されるためには、どれだけの物質、どれだけの仕事、計算、簒奪された諸世紀、異質な生の積み重ねが必要であったか。」
しかし、ヨーロッパが得た知識は「消費財」から「交換価値」へと化し、世界中に出回る商品となる。それが模倣され、いたるところで作られるようになると、「重量的に軽いはずの」ヨーロッパに傾いていた秤は、次第にもう一方に秤を傾けはじめる。
しかし、現段階でもなお、ヨーロッパの「精神」は他地域よりも重きを成している。その精神があるところ、必ず最大限の欲望、作業、資本、能率、野心、勢力、外的自然の変形、関係及び交換が出現するのだ。

方法的制覇

計量による標準化により、ドイツ社会は目覚しい発展を遂げた。しかし、われわれが標準化を適用できていない領域がまだある。それは「考える術」についての方法、すなわち天才を出現させるための方法である。
しかし、仮にその方法が発明されれば、それは人間不要論に行き着くのではないだろうか。それが「今日の成果よりもいっそう完璧、強大、快適なものだとしたら、何という奇妙な結果であろう。」

知性について

近代生活のエネルギーの濫費。我々は「懸命に濫費する道を考えるために、新たな必要を一から創出するようなことをする(それも人類が想像だにしなかったようなものを)・・・・・・それは、まるで、あたらしい物質を発明したので、その物質の特性にしたがって、その物質で治療できる病気や癒される渇きを作り出すようなものだ。」
速度の濫用、光の濫用、多様性の濫用、共鳴の濫用、安易さの濫用、極度に発達したスウィッチのオンとオフの濫用・・・・・・。

「精神」の生活

「精神」とは「変換する力」。それは我々の本能的な要求を満足させるだけではなく、詩や音楽をとおして感受性の領域にも用いられる。その成果が、抽象的な学問や、壮大な神殿なのだ。
しかし、「幸福な人民には精神がない」。そして現在の世界には、我々が最も高く評価するもの、賛美するものが作られ、成果を挙げることができた状況が、目下、急速に失われているという事実がある。

独裁について

人々が精神―理知的な行動様式や混沌や力の浪費に対する嫌悪感―を見失い、政治システムの機能不全や無策が、精神によってありえないように思われるとき、独裁が芽生える。
「それは公的秩序と救済の問題である。この二つのものをなるべく早く、最短距離で何を犠牲にしてでも手に入れなければならない。唯一、一つの自我だけがそれを成し遂げることができる。」

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)

精神の危機 他15篇 (岩波文庫)