復興期の精神/花田清輝

2006/12/2読了
「率直にいえば、私はコペルニクスの抑制を、彼の満々たる闘志のあらわれだと思うのだ。かれのおとなしさは、いわば筋金いりのおとなしさであり、そのおだやかな外貌は、氷のようにつめたい激情を、うちに潜めていたと思うのだ。そうして、闘争の仕方にはいろいろあり、四面楚歌のなかに立つばあい、敵の陣営内における対立と矛盾の激化をしずかに待ち、さまざまな敵をお互いに闘争させ、その間を利用し、悠々とみずからの力をたくわえることのほうが―つまり、闘争しないことのほうが、時あって、最も効果的な闘争にまさるものであることを、はっきりとかれは知っていたと思うのだ。」(61)
ルネサンスの中世から古代への復帰について)「人間であると同時に非人間的な、あの厖大なかれらの仕事の堆積は、すでに生きることをやめた人間の、やむにやまれぬ死からの反撃ではなかったか」(103)
喝采を放棄し、尾羽打ち枯らさなくて、なにができるか。我々の欲するものは栄光ではなく、屈辱なのだ。闘争にとって不可欠なものは、冷酷な晩年の知恵であり、一般に想像されているように、奔騰する青春の動物的エネルギーではない」(209)※分かりにくい場合は「『ドン・キホーテ』註釈」を参照
「人間が、人間以外のものに変化したばあい、それから脱出する道は労働以外にないのだ。ここに、変形の実践方法がある。紆余曲折の末、ついに我々のみいだしたものは、自明の事実にすぎなかった。しかし、私はなお若干心配である。はたして、狐や、かぶとむしや、石に、労働することができるであろうか。」(240)