ナボコフ自伝/ナボコフ

2006/12/6読了
「それから四分の一世紀後に私はふたつのことを知った。ひとつは、そのころはもうなくなられた後だったが、バーネス先生がロシア詩の博学な翻訳者として実は非常な高名な方だったということで、ひとつは、大叔父や年とった下僕たちと同じくらいの年輩と思っていたおだやかなカミングズ先生が、私とほぼ同じ頃、エストニア生まれの若い娘と結婚したということだった。
このふたつの思いがけない事実を知ったとき、私は奇妙な衝撃を受けた。それは、私の方では幼年時代の記憶の境界線を主観的に、優雅に、経済的に確定して、署名調印したつもりで安心していたが、実際は人生が境界外で蠢動して、私の創造の権利を侵害していたという驚きだった。」(69)
「家庭教師の先生が坐るはずの席では顔が次々に変る。(中略)だがついに色彩と輪郭の線が定着して、それぞれがそれぞれの義務を―のどかなつまらない義務を―果たし始めようとする瞬間、急にどこかのノブが回され、たちまち音が洪水のようによみがえってくる。てんでにしゃべりあっている人声。くるみを割る音。無造作にくるみ割りを渡すかたりという音。私の心臓の音を規則正しい鼓動音でかき消そうとする三十もの人間の心臓。それにまた無数の木々のざわめきやため息。かしましいほどの夏鳥の合奏。そしてリズミカルに揺れる木立の裏手の川の向こうから聞こえてくる、烈しい拍手の波のような、水泳ぎに興じている村の子供たちがあげる我を忘れた騒ぎ声。」(140)
「だが私の思いはほかのことにあった。ピアリッツで友達になったコレット。踊り子のルイーズ。クリスマスのパーティーで会った、上気した、絹の腰巻を巻いた、うぶ毛を生やした若い娘たち。従兄の神秘的な恋人のG公爵夫人。私の夢の入り口に立っているポレンカ。そうしたみんながひとつに溶けあって、私がまだ知らない、だがやがて会うはずのだれかの姿をとってくるのだった。」(168)