「旅する哲学」/アラン・ド・ボトン

2006/11/29読了
「わたしは片隅に坐ったまま、チョコレート・フィンガーを食べ、ときどきオレンジ・ジュースを飲む。私は孤独だったが、このときだけは、穏やかな、心地よくさえある孤独だった。それというのも、笑いと友情の背景に溶け込もうとしたら、私の気分と周囲とのあいだの対照に辛い思いをしたところだけれど、誰もが他人で、心を通じ合うことの難しさもかなわぬ愛への憧れも当然のことと認められ、建物と照明で残酷に剥き出しにされているこの場では、私の気分もそれなりに、落ち着く場所を占めることができるからだ。」(63)
「わたしたちは、道路脇の簡易食堂でも、夜更けのカフェテリアでも、ホテルのロビーでも、駅の喫茶店でも、誰でも出入りできる場所にひとりぼっちでいるときの孤独感を薄めることができ、そのことによって、はっきりと仲間意識を再発見する。写真立てに写真を飾り、心を慰める家具調度に囲まれ、壁紙に凝り、それらに裏切られた居間にいるより、ここで悲しみにくれているほうが心休まることもあるのだから。」(69)
「わたしがスキポール空港の案内板をエキゾティックだと言ったのは、案内板が漠然とではあっても力強く暗示することに成功しているからだ―この案内板を作った国は、わたしの国よりもわたし自身の気質と関心とに通じるものがあると、決定的な方法で証明しているかもしれない、と。案内板は、わたしにとって、幸福の約束だった。」(87)
「わたしもマドリッドについて、何の遠慮もないガイドを想像してみる。マドリッドの風景について、主体的な興味のランク付けに従ったら、どんなものになるんだろう?三ツ星クラスの関心は、まずスペインの食事の野菜の量の少なさ、次に普通の市民の姓が長くて貴族ふうに聞こえること。」(150)