『桜の園・三人姉妹』 チェーホフ

ラネーフスカヤ 「真実をねえ? そりゃあなたなら、どれが真実でどれがウソか、はっきり見えるでしょうけれど、わたし、なんだか目が霞んでしまったみたいで、何一つ見えないの。あなたはどんな重大な問題でも、勇敢にズバリと決めてしまいなさるけど、でもどうでしょう、それはまだあなたが若くって、何一つ自分の問題を苦しみぬいたことがないからじゃないかしら?……爪の先ほどでもいいから寛大な気持になって、わたしを大目に見てちょうだい。だってわたしは、ここで生まれたんだし、お父さんもお母さんも、お祖父さんも、ここに住んでいたんですもの。私はこの家がしんから好きだし、桜の園のないわたしの生活なんか、だいいち考えられやしない。(74)

チェブトイキン 「いや、ほんとにわたしは、ついぞなんにもしたことがないな。大学を出たっきり、指一本うごかしたことがない。小さな本一冊、読みとおしたことはなく、読むのはもっぱら新聞だけでね……そらね。……まあ例えば、ドブロリューボフという男のいたことは、新聞で知っちゃいるが、じゃ何を書いたかという段になると――知らないね。……どうぞご勝手に、というところさ。(122)

ヴェルシーニン 「二、三日まえ僕は、あるフランスの大臣が獄中で書いた日記を読みました。その大臣は、例のパナマ疑獄で有罪になった人です。それがね、実に陶酔的な感激口調でもって、獄窓から眺めた小鳥のことを述べている。大臣をしていた頃は、気にもとめなかった小鳥のことをね。もちろん、出獄した今となっては、また元どおり、小鳥なんか気にもとめないにちがいない。それと同様にあなたも、いざ住みついてみれば、モスクワなんか目につかなくなりますよ。幸福は現にわれわれにもないし、またそのへんに転がっているものでもない。ただ願い求めるだけのことですよ。(170)

イリーナ 「そこであたし、急に決心したの――どうしてもモスクワへ行けないものなら、それでも仕方がない。それが運命なんだから、なんともなるものじゃない。……一切は神のみ心にある、ほんとにそうだわ。そこへトゥーゼンバフさんが、あたしに結婚を申込んだの。……いいじゃない? ちょっと考えて、決めたの。あのひと、いい人だわ。驚くほど、じつにいい人だわ。……するとあたし、いきなり魂に翼(はね)がはえたように、浮き浮きと心がはずんで、さあ働こう、一生懸命働こうと、また元気が出たの。(219)

チェーホフの最晩年の作品である『桜の園』『三人姉妹』を呼んだ。一般的に、チェーホフの四大戯曲は、後の作品になるほど、希望が大きなものになると言われている。しかし、今回再読した『桜の園』にも『三人姉妹』にも、希望は感じられたなかった。それどころか、その前の『かもめ』や短編小説以上の、救われなさを感じたのだ。
 その原因は何かと考えれば、登場人物の考えの古さ、行動力の無さに対するいら立ちなのかもしれない。短編小説では、そこにある種の「かわいらしさ」を感じることができたが、それは彼らが対処していたのが、「恋愛」や「友情」といった類の問題であるから。しかし、問題が「生活」となると話は違う。それに対応できず、悲観論や愚痴ばかりをくり返す登場人物たちは、かわいらしいというより、むしろ愚かなものに思えてしまう。
 もちろん、それがロシアの現実である、そこにロシアの抱える根本の問題がある、ということを伝えようとしたチェーホフの意図もあるかもしれない。しかし、もう少し登場人物たちが生活を楽しめていたら、この戯曲の印象も違ったかもしれないのだ。
 あえて現実を直視せず、楽しくやり過ごすこと。ジャーナリストや社会改良家から見れば、それこそ愚かな考えなのかもしれないが、この視点を少しだけ私たちの人生観に加えることも、一つの知恵だと思う。少なくとも悲観論を繰り返すよりは遥かに良い。

桜の園・三人姉妹 (新潮文庫)

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