『村上春樹 イエローページ2』 加藤典洋

2009/5/27読了

ノルウェイの森

直子とは僕の分身、僕の鏡である。直子と僕の関係は、こうして、自分ともう一人の自分の関係、一個の内閉的な世界像を体現する。(中略)これに対し緑は、彼を内閉世界から外に連れ出す存在として現れるが、影が、いわば倫理で僕を内閉世界から外に連れ出そうとして果たさなかったのに対し、ここで緑は、いわば恋愛というまったく別種の力で僕を外に連れ出す。(60)

ノルウェイの森』は内閉世界からの回復を描く物語である。しかしこの肯定的な主題を、この小説は、その回復のために犠牲にされなければならなかったもののほうから因果的に浮き彫りにすることをめざし、そのことに成功している。
(中略)村上は、この神のない世界で、「いろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身動きがとれなくなってしまう」主人公の姿を。最後までゆるぎなく、誠実にたどっている。作品に多くの読者を獲得する力を与えているのは、この目立たない力である。(65-66)

ダンス・ダンス・ダンス

わたし達はだからこう問うべきなのだ、この(内閉への)連帯はなぜ生じているのだろう?五反田君のこの破滅には根拠がある。理がある。それをどう説明してよいかわからない。でも、もし世界への回復ということがいま、意味をもつとしたら、それはこの内閉世界に五反田君のような苦しみがあるからだ。ここで作者はたぶん、こう言いたい。このような思いが、作者にこれを書かせているのである。(111)

そもそも、この小説は第三の世界(現実の世界)を必要としていない。もう第三の世界はない、ということがこの小説のゲームの規則なのだ。第三の世界はない、とは回復すべき世界がない、ということだ。しかし、世界がなくとも内閉がある。内閉がある限り、たとえ世界はなくとも、世界への回復という命題は、成立するのではないだろうか。(117)

国境の南、太陽の西

こうしてこの小説は、(中間をなくし)あの「心を揺さぶるような何か」を求めることと、そのことが他者を「とりかえしのつかないくらい決定的に傷つけてしまうこと」の間でどう人は生きるか、ということを描く物語として、わたし達の前に置かれる。(148)

ここにはあの直子と緑の間で引き裂かれる僕の場所はない。そこで僕は、いわば相手を決定的に傷つけるものとして相手の前に立たされる。そういう僕が、相手とともに生きるとはどういうことか、そのことを可能にするのは何か、そういうことが、この小説の主題として浮上してくるのである。(153-154)

この小説は、結局のところ、わたし達に国境の南、あの世界への回復、あこがれの力からのある「解放」を語っている。あの力は誰にも否定できない、というより、人を生きさせるのはその力なのだ。しかし、敗者がいなければ勝者がいないように、その力は、もう一つの力とどこかでつり合っている。勝者の力に対する敗者の力というものがあり、それはまったく違うものだが、それをつり合わせる秤がどこかになければ、そもそも勝利ということがありえない。あの心を震えさせるものの力が私たちに及ぶについては、それだけの心の力の心棒を支える場所がどこかに用意されている。本当に生きているのは、その場所だ。その場所とは、誰からも見離され、卑小で、広大で、砂漠のような、わたし達の生のことである。(170-171)

ねじまき鳥クロニクル

わたし達は、ここに、あの「内閉への連帯」という主題が自分の井戸を掘り進めることで村上を連れてきた、極限の像を見ることができる。ここにはおぞましいものがある。しかし、世界の果てにいる存在に連帯するとは、そのおぞましいものになった存在に、自分もおぞましいものになり、連帯することではないだろうか。(203-204)

彼のこれまで行ってきた世界へのコミットメントは、今彼が行おうとするコミットメントと違うものだろうか。(中略)デタッチメントの井戸を掘りぬくことで、世界と出会う。それはおぞましいものへの連帯、自分という根拠を失うという連帯、それを失ったままでの連帯、そういう方向を掘りぬくことで、はじめて世界につながるものである。(228)
(井戸の再生が、その象徴となる)

村上春樹 イエローページ〈2〉 (幻冬舎文庫)

村上春樹 イエローページ〈2〉 (幻冬舎文庫)