『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 3/5

構造、機械、エクリチュール

・「構造」と「機械」の違い。交換主義的な発想は、「統計学的に閉じられた閉鎖システム」を要請し、「構造を心理的な確信(サイクルは閉じられるだろうという安心感)によってささえられること」を要求するが、負債ブロックの開放性や、統計学的に見た組織体とその構成要素(分子)との関係についての経験的事実は、そうした構造論的なモデルには適合しない。経験的事実が、「構造」では説明しきれない問題、根源的な不均衡の所在を示しており、それは「欲望機械」の運動に起因する。(249)
エクリチュールと欲望。D+Gは、身体レベルでの欲望機械の運動と直接的に相互作用し、その一部になっているような原初的なエクリチュールと、そうした身体性を失って、抽象化したエクリチュールを区別する。彼らは、デリダのようにパロールエクリチュールの対立あるいは代捕関係を一般化せず、両者をできるだけ欲望に関連付けて理解する。(274)

専制君主と近親相姦

専制君主機械は「死の本能」のような危険なものも、その中に取り込む。そうでないと、王の身体に収まりきらない異質なもの、「外部」に由来するものが、国家の中に入り込み、秩序を脅かしてしまう。キリスト教では、悪魔が神の創造物で無いとは言えないし、現在の国家でも、取り締まりが不可能な乱暴者を警察や軍隊など国家の暴力装置に抱え、おかしな言動で人を惑わす輩は、宗教人や芸術化、芸人として位置づけて間接的に管理する。(266)
専制君主の近親相姦行為について。それは、神、あるいは神との媒介者である王だから許される特殊な行為、新しい縁組を示すことで、共同体の基礎付けとなる行為であって、そうではない普通の人間には禁じられている。エディプス神話も、見方によっては王侯だからこそ、特別な意味を持つ出来事と取れる。普通の人間には許されない近親相姦という聖なる行為を犯した英雄だからこそ、ゼロから新しい秩序を作りだせる強い存在だと人々に印象付けることができるのだ。(269)