『デリダ』高橋哲哉 2/3

エクリチュールと暴力

レヴィ=ストロースが描写したナンビクワラ族の暴力について。暴力は固有名の禁止の侵犯によって初めて共同体にもたらされたものではなく、そもそも固有名をつけること自体が、すでに根源的な暴力である。ある人に名前をつけることは、その人を社会的に分類するためにその社会の名前のシステムの中に登録する=書きこむことにほかならない。(132)
・暴力には「光」の暴力、「沈黙と夜」の暴力、「別の光」の暴力がある。光の暴力とは、形而上学の暴力、プラトン主義的なロゴス中心主義的言説の暴力であり、これには別の光の暴力をもって、ただし言説として暴力的であることを自覚した言説をもって戦わなければならない。沈黙と夜の暴力は、最悪の暴力、いっさいの発話、コミュニケーションを拒否した関係になりかねない。(114)
・例えば「私は生きている」というパロールは、私が死んでしまったときにも意味を持つものでなければ、私が生きているときにも意味をもつことはできない。この意味で、パロールエクリチュールを含む言語一般には反復される可能性がある。それは、パロール内部でそもそもはじめから働いているエクリチュール的要素として、原エクリチュールの働きと重なる。(152)

反復と散種

形而上学的反復では、イデア的なものが反復に先立って存在し、それをまったく同一なままに繰り返すことが指名とされる。脱構築的反復では、同一にとどまることなく、絶えず変化し、他なるものとなり、多なるものとなることが目指される。デリダは、言語や記号のこの運動(=散種)に、「まったき他者の侵入」のチャンスをうかがう。(163)
・テクストは(裏切りの可能性を含んだ)他者の署名を呼び求めるという開かれた構造を持つ。それは<差異を含んだ反復>の可能性そのものである。デリダのテクストが常に他者のテクストの読解、あるいは形而上学の歴史への「寄生」形態をとることは、彼の他者の呼びかけに対する「責任」を示すものといえる。(176)

法の力

アメリカ独立宣言における、権利上の署名者=「善良なる人民」とは、宣言以前には、そのものとしては存在しないのではないか?署名者が署名する「権利」を得、「権威」を得るのは、この署名行為の実力行使=力の一撃が終わってから、事後的に=一撃の後でであって、回顧的なフィクションによってにすぎない。行為遂行的な言説を、あたかも事実確認的な言説であるかのように見せかけること。独立宣言はこうして、起源の暴力の痕跡を抹消しようとする。(204)