『デリダ』高橋哲哉 1/3

形而上学

デリダプラトンのテクストに読みとっていくのは、プラトンのテクスト自身のなかで、形而上学の構築の欲望とそれを脱構築する契機とがせめぎ合っていること、(プラトン主義)形而上学とはじつは、この「決定不可能」なせめぎ合いを一定の仕方で「決定」し、この「決定」を固定化するところから生じたものにすぎない、ということである。(57)
プラトン主義哲学としての「形而上学」は、諸概念の二項対立、諸価値の二元論的分割をこそ、そのもっとも基本的な特徴としている。パロールエクリチュール、「記憶(ムネーメー)」と「想起(ヒュポムネーシス)」の分割を可能にするために導入されている対概念(魂、内面性、記憶、生、現前…/物質、外面性、想起、死、不在…)は、各項がたがいに他を排除しあう対立として固定され、以後二〇〇〇年におよび西洋哲学、西洋文明の歴史を強力に想定することになる。(81)
形而上学の特徴の一つは、音声中心主義である。そこから「表音文字」こそありうべき文字一般の理想的モデルであるとの想定が発生し、この音声中心主義が「西洋」の自民族中心主義、ヨーロッパ中心主義の温床にもなる。(83)

差延

・内部と外部(魂と肉体、善と悪、記憶と忘却、パロールエクリチュール)は異なっている。両者は「差異」の関係にある。この差異を「対立」として「決定」し、確定し、固定するなら、そこにプラトン主義形而上学の階層秩序的二項対立が生じるだろう。内部は内部以外の何ものでもなくなり、その結果、内部の絶対的自己同一、純粋現前が実現するかに見える。ところが、それは、内部の内部からつねにすでに外部がはじまっているというあの代捕の運動、(原)エクリチュールの運動によって不可能である。純粋な内部(自己)と見えたものの内部にたえず外部(他者)をもちこみ、内部(自己)と外部(他者)の差異を「決定不可能」なままに生み出しつづけていく、この差異化の運動こそ「差延」である。(109)