『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 4/5

資本主義とエディプス

・大地機械、専制君主機械に続く資本主義機械では、社会の中で決まった役割を担っている人物や機関を、父や母(のようなもの)だと認識させる力が働く。例えば、職場や住んでいる都市や国家を家族的に捉えることになる。家族的なイメージが覆いかぶさることで、社会全体のシステムを批判的に見る視点が持ちにくくなる。(304)
フロイトは特定の対象や目標に縛られないリビドーの存在を想定することで、「欲望」を脱領土化、脱コード化したが、それが働く領域を「家族」に限定し、再コード化してしまった。社会動かす「超越的対象」に対する「良心の呵責」、存在の負い目であれば解消しようがないが、エディプス三角形にその原因があれば、精神分析によって解決できることになる。D+Gの視点から見れば、それはこじんまりした、社会の根本的な在り方は問題にしない、疑似治療法ということになる。(312)
・欲望の備給、配置は社会野でおおよそ規定され、子供はその経路に従い色々な経験をする。一致の年齢に到達しさえすれば、肛門期とかエディプス期に達することが生得的に備わっているわけではない。(322)
・「資本主義機械」は脱コード化・脱領土化を進め、分裂的な欲望を解放することで、富を生みだしたが、それがグローバル化し、地表を覆い尽くすと、もはや脱領土化・脱コード化できなくなる。それが資本主義が死ぬということかもしれず、その意味で「資本主義機械」は「死への欲動」によって動かされている。
 G+Dは、フロイトは「資本主義機械」の運動全体を見ないまま、「死への欲動」を基本的に個人の内面、無意識の問題として捉えていると批判する。彼らにとって、「死への欲動」とは、自らの「死」へ向かってゆく「資本主義機械」の運動が個体レベルで現れたものとなる。(372)
・人のアイデンティティは本来多様なのもので、いろんな人格を経験していく可能性があり「分裂者」はまさにそうした生を生きている。しかしエディプスを核とする近代の家族主義は、それを家族の中で形成される“元来のアイデンティティ”へと連れ戻そうとする。「分裂者」は様々なキャラを演じることで獲得してきた身体的強度や、彼にとっての(変容しつづける)「現実」を奪われ、「器官なき身体」、つまり強度ゼロの状態まで押し戻される。つまり「現実」を奪われ、「自閉症」にされることになる。(176)