『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』 ソニア・キリアコ 2/3

 アリスはこのように分析家に語ることで、幻聴によって強要された根本的孤立から抜けだした。それらの幻聴はいったんシニフィアンに翻訳されると、もはや純粋に現実的なものではなくなる。なぜなら、象徴的な次元と想像的な次元がそこに加わるからだ。このようにパロールを通過することは解釈を生みだし、単なる語彙の選択から出発して作られる意味についての仮説を前提としていた。それは転移の<他者>を含む最初の結び目であり、同時に<他者>をばらばらにして不完全にし、その脅威を弱めた。(128)
 ヴィクトールは、母親の埋葬に立ち会わなかったことで、またユーモアによって自分の悲しみをごまかしたことで、父親の拒絶的態度を、知らないうちに反復させていた。ヴィクトールは父親の「抑うつ (l’humeur noire)」から「ブラック・ユーモア (l’hemeur noire)」へと移っただけであったが、このわずかなシニフィアンの違いは、現実界に対する効果的な防衛をなしていた。このように、父親への同一化は逆転したかたちで形成されていた。つまり、いつも笑い冗談を言うことで影のうちに苦悩を残していたのである。(143)
 各自は自分の人生の諸要因から暗中模索し、結びつきを確立し、出来事を意味作用の技巧によって組み立て、構築し、そしてそうしながら象徴化する。「こんな目に遭うなんて、私はどんな悪事をはたらいたというのか」……
 患者はいかに稚拙なものであったも自分の病の想像的な理論を構築することによって、自ら不在であったところに主体として参入する。患者が<他者>に語る以上、彼のパロールは躓くことがあるし、彼を驚かすこともある。そして、彼のディスクールの亀裂において彼自身も思ってもみなかった無意識の次元が露呈するであろう。おそらくそこにひとつの解決法がある。それはこの消化不良な現実的なものを謎めいた症状へと、つまり明確に言われることを待っている欲望についての隠れた真理へと変えるだろう。(151)
 致死的な病に侵されたジャンは、画架の脚がシロアリに喰われ、画の上部に「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と署名されたデッサンを書く。
 彼が死を超えて部分的に不死だとすると、それはまさにシニフィアンの秩序に、固有名詞に属しているからだ。芸術作品はそれを制作した者の手をいったん離れ、残る。それは万人のためのもので、共有される文化の場所、<他者>の場所に参加する。作品は自らの含むもっとも壊れやすいもの、もっとも儚いものによって表わされ、時間による摩滅、シロアリの被害に晒されている。ここで作品自体が危険に晒されているとしても、ジャンはレオナルド・ダ・ヴィンチを呼びおこし、画家が歴史の中に残した不滅の痕跡を示すのだ。これはこの少年が好んで出す話であり、それは彼自身が現実界の重みのもとでつぶされたままではないということを示している。……
 致死的な病とのこうした不幸な出会いをした者にとって、打ちのめされないための唯一の方法はこのように現実を捻じ曲げること、不可能なものを思考可能な現実に変換することである。それは決定的な選択だ。(157)