『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』 ソニア・キリアコ 3/3

 この本の結論として、<他者>の被害者の立場に留まらず、自らの苦しみの責任を引き受けること、それによる重圧からの解放が説かれている。
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 ここにはひとつのパラドクスがある。つまり、人は自らの懊悩の重荷を背負う能力があればあるほど、その荷を降ろすチャンスを多く持てるのだ。だがその荷がいつまでも<他者>の側に残されていれば、それはその人を悩ませることをやめないだろう。主体的責任の一端を引き受けるだけでも欲望は解放される。こうした理由ゆえに精神分析は被害者論とは反対のものなのだ。分析的装置は主体に自らの要請を展開するように仕向け、またそれを超えて、主体が幼年期に歴史において躓いたあらゆる要請を繰り広げさせる。想像的な関係において捉えられることを許さない、そして自らの無意識的連想を投影しない<他者>にパロールが発せられるとき、このパロールを経ることは、出来事に新たな地位を与える。(167)