『稲妻に打たれた欲望 精神分析によるトラウマからの脱出』 ソニア・キリアコ 1/3

 副題に記載されている通り、精神分析によるさまざまな症状からの回復事例を紹介した本。特に、以下の点がポイントとなる。
精神分析は、既定の治療法を適用すれば良いというものではなく、患者一人一人にむきあい、それぞれの解決策を考えていかなければならないこと。
・分析は精神分析家が一方的に行うものではなく、逆に患者が精神分析家の力をかり、自らのストーリーを作り上げることで、精神的外傷を治癒するものであること。
・分析の結果、トラウマが完全に解消するわけではないが、患者の生活が良い方向に改善すれば、それでいったんの終了とする場合もあり得ること。
 以下が臨床例の引用となるが、ラカン派の精神分析の方法や、その概念の適用例が、大まかに掴めるのではないかと思う。
……
 ニーナは分析のおかげで、<他者>の対象という立場に留まることを回避できた手がかりをつかむ。彼女は、自分をひどく醜いと思わせた外傷を認めるだけでは不十分であった。ニーナは、考えられないことを「私は男の子を惹きつける」という、ひとつの公式に変えていた。その結果、外傷は意味の外にある現実的なものではなくなる。外傷は想像的なものと象徴的なものによって飾られた手の届くものとなり、取り扱いができるようになる。つまり、外傷は治療の中で言い表わすことのできるファンタスムとなったのだ。(27)
 フロイトの分析による、少年ハンスの恐怖症は、馬への恐怖症の形をとる不安の症状の転換である。恐怖は不安から身を守るために利用される。症状とは知の中の穴への、ジュイッサンスを内包する返答である。主体は苦しみ、苦痛を訴えるが、それでも何よりもそれにしがみついている。このパラドクスは、精神分析による最初の発見のひとつであった。(45)
 ヒステリー者の欲望は不満足のうちに留まらなければならない。というのも、欲望されているのは欲望それ自体だからである。アナが我慢するのは欲望を感じるためであった。これは彼女が幼年時代からよく知っている方法のひとつだった。(88)
 ラカンは<父の名>のシニフィアンを、全てのシニフィアン的構造を支えると見なされる特権的シニフィアンとして強調した。シニフィアン的構造抜きでは「人間的な意味の秩序を確立できない」のだ。このシニフィアンは、父性隠喩の作用により成立し、無意識に現前する現実界想像界象徴界という三つの次元を結びつけている。子供にとっては<父の名>は、母親が来てくれたり去ってしまったりすることによって謎となった母親の欲望に取って代わり、その知られざる意味作用に鍵を与えるものとなる。その隠喩の作用が起こらない場合、<父の名>は排除されたままとなる。そして無秩序に現れたりいなくなったりする原初の<他者>の気まぐれを妨げようとするものはなにもなくなり、それとともに<他者>は自らの全能性を保持するのである。
 こうして、ボリスは母親のファンタズムの対象の場所にとどまっていたので、男性として生きる手前で途方に暮れてしまったのだ。(109)