『新映画論 ポストシネマ』渡邉大輔 2/3

時代精神としての「ドキュメンタリー的感性」。『牡蠣工場』では、年若い漁師が外に出払っているあいだ、彼の妻が工場の広い台所で食事を用意しているシーンで、撮影者の質問に対する答えや彼女からの質問は、どこか「いかにもドキュメンタリー」という紋切型のものとなる。そして、彼女は何度も「こんな感じ?」と訊き返す。ここには、この世界それ自体がたえず映像になりうる可能性をはらみ持ったメタ映画=ポストシネマ的な感性や状況が窺える。(97)
・フェイクドキュメンタリーにおいて、ドキュメントのフェイクとしてのリアリティは、かつては物語世界、つまり空間設計に依拠していた。それに対し、新たなフェイクドキュメンタリーはリアリティを時間的な側面において作り直しているということができる。映画ができていくプロセス(時間)の領域を作品自体に取りこむことで、映画を支配する誰か(監督やプロデューサーなど)の特権的な意思によって非対称的に現実が「嘘」に捻じ曲げられるポストトゥルースの隘路とは別のあり方が開かれるのだ。(118)
・かつては新規なもの、特異なもののほうが人気もあり、価値も高かった。そして、凡庸なもの、知っているものの価値は低かった。だが、その対比はいま逆転している。ひとびとは、何度もループして観るなかで、それらのコンテンツや演出のあいだの微妙なズレが生じることこそを楽しんでいる。いわば文化消費のあり方そのものが、リメイク的で、「リズミカル」なものになっている。(159)
・生と死、人為と自然、一と多、主体とモノといった従来の二項対立を組みかえるゾンビ的な存在への注目。『10CFL』のミシェルは、絶滅後の映画世界にふさわしいゾンビ/ハイブリッド性を身にまとう。密室に培養された無数の「ノンヒューマン」と化したかつての人間達がうごめくこの世界こそ、わたしたちが直面しつつある「絶滅後」の映画なのかもしれない。(187)
・現代において、「イメージの公共性」を考えるならば、それは国家権力のつくる「勝者の公共圏」ではなく、社会の隅々にまで張りめぐらされ、微視的な日常を記録できるようになったカメラのまなざしから出発するほかない。『牡蠣工場』の中で中国人労働者を見る漁師の姿、そこであぶり出される「排除と包摂」の尺度は、そのことを強く実感させる。(212)
・『イレブン・ミニッツ』の監督スコリモフスキは、「カメラ付き携帯電話、Webカメラ、監視カメラ」などのデジタルデバイスで構成したオープニングについて「登場人物たちにとってサイバー墓地みたいなもの」「われわれより長生きするシンプルで無害なモノ」を表現したかったと述べる。多視点的転回や、オブジェクト指向の哲学など、ポストシネマ的なメディア状況との本質を共有する発言。(218)