『新映画論 ポストシネマ』渡邉大輔 1/3

 2010年代の映画を題材にした研究書だが、定まった理論や仮説を述べるというより、現代映画をよりよく理解するためのキーワード集という印象を受けた。
 この本の記述をたよりに、20本程度の2010年代の映画を見てみたが、たしかに「デジタル化」「ポストヒューマニティ」などという特徴は、複数の映画にみとめられる。しかし、それらは2010年代の映画を明確に特徴づけるものというより、現代映画が「描かなくなったもの」により、陰画的に浮かびあがってくるような、緩やかな性格のものに思えた。
 例えば、私が見た映画の多くは、人間の性格や物語がそれほど単純ではなく、全体的にどこかすっきりしない作品が多かった。それは9.11、3.11のカタストロフによって、あるいはネット社会の発達による情報の過剰によって、単純なもの言いを描くことが封じられためと考えられるかもしれない。また、デジタルな技術の発達により、未来や宇宙やサイバー空間はリアルに描けるが、それによる現実的な手ざわり(≒指標性)の喪失を感じたからなのかもしれない。
 ある時代の映画をひとつの傾向の中に収める難しさはあると思うが、たしかに私はこれらの映画の中に、ゆるやかに、2010年代を感じることはできた。崩壊したツインタワーの綱渡りをテーマにした『ザ・ウォーク』のラストでは、最後まで画面に残るツインタワーと、主役の少し悲しげな表情が印象的だったが、それが複雑なこの時代を表す雰囲気であると思えた。
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・今日の映画製作では、実写の撮影に先行してまずアニメーション(プリヴィズ)が制作される。(39)
・フィルムが消滅し、デジタル映像が主流になった現在、映像のリアリズムやその存在論的な根拠を、フィルムの指標性(現実世界との物理的つながり)に還元して考えることはできない。それに代わり、本質的に指標性に基づいていない「動く映像(ムーヴィング・イメージ)」としての「アニメーション」が前景化する。「映画は、最終的にはアニメーションのある特殊なケースになったのである」。(44)
・GoProの視線について。古典的映画やラカン精神分析のような人間=神経症的主体のまなざしではなく、非人間的な視界をリアルに実装してしまっている。(50)
・フランスの哲学者ミシェル・セールは、かつてのマスメディアが相手にしていたまとまりを持った自然や集団は、高度情報社会のなかでは解体され、ますます価値付与されない見えざる個人になっていると考えた。彼はそれらをミゼラブルと名づけ、そうした個人たちが織りなす相互干渉のネットワークの様態を「可塑性」と呼んだ。積み上げられた粘土のように、複数の個体がたがいに力をおよぼしあいながら動的に変形していく可塑的な様態と、デジタル以降のコンテンツの本質はきわめて近しい関係にある。(72)