『新映画論 ポストシネマ』渡邉大輔 3/3

・『イレブン・ミニッツ』の空間にたゆたうブフォンのまなざしは、デジタルメディアにおける「オブジェクト指向」の世界観を象徴的に体現している。登場人物たちが不条理なまでにカタストロフにのみこまれるラストもまた、象徴的な意味での「絶滅」(「人間的なもの」の死滅)のモティーフである。(223)
・十七世紀のジャンセニストたちの宗教的イメージは、まさに指標性=聖性を失った『沈黙-サイレンスー』のデジタルな「キリストの顔」のイメージと奇妙に接近する。そうした聖性を失った「キリストの顔」にも、人間は個体の生を超えた信仰の契機を得てしまう。ここにこそ、ポストシネマまで続く信仰の問題がある。(251)
・シネフィリーとポストシネフィリー。かつてのシネフィル的営みとは、時代の変遷とともに推移するあまたのジャンル史的な記憶や慣習に、再上映などの限られた機会で繰り返し親しみ、それらの慣習を身体的に少しずつ習得していくこと、アニメーションのリズム、ドキュメンタリーのリズム、フィルム・ノワールのリズム、八〇年代ラブコメのリズムに身体を同調させ、「乗る」こと。ポストシネフィリーのそれは、目の前にバラバラに散らばった複数の映画的慣習(「時代」「ジャンル」「作家性」……)のあいだを危うげに踏み締め、絶え間なく「習慣化」と「脱-習慣化」を繰り返していく、――まさしく自らの習慣化された身体に「綱渡りの身体」を習得していく(そして、そこからまた離脱していく)こと。※このあと、議論は「すべてを一から調べ、試行錯誤を繰り返し、うまくいった部分を集めてゆき」、そしてたしかな「技術」=慣習をもう一度新たに組織するという、ポストシネマ的なテーマにつながるが、ここの記述の流れは少し分かりにくかった。(258-267)
・『映画 聲の形』の疑似シネマティズム表現は、アニメーションが実写映画に接近したことを意味しない。アニメーションが「映画的なもの」を取り入れて自らの表現領域を拡張した表われであり、それはひとつの映画の中に複数のメディウムや慣習が複雑に交差配列しているという事態なのである。(316)
・可塑的な相互干渉の様態こそ、ポストシネマの一貫的な特徴。近代的な価値観や制度(従来の「シネマ」を含む)では対立させられたり、優劣づけられていた多様な要素が、相互に能動的に関わり合い、形を変えていく事態。カメラと撮影者が、リアルとフェイクが、オリジナルとリメイクが、映画史的記憶とデジタルな忘却が、視覚と触覚が、それぞれ相互に影響を与え、新たな映画=ポストシネマを生み出していくということ。(416)