『浄瑠璃を読もう』橋本治 4/4

これはもう「文学」でしかない『冥途の飛脚』

 忠兵衛の描かれ方はそのようにリアルで、ステロタイプな和事の演技で片付くようなものではないし、近松門左衛門は「すべてを言葉で語り尽してしまうような特権的な作者」でもあるから、自分の描いた詞章で人形がどのように動くかということをあまり考えていない。――だからこそ容赦なく、リアルな人間造形をしてしまう。……彼の書く世話浄瑠璃は、当時の現実を写した「現代小説」でもある。(353)
 重要なのは「知らない」ということで、陰で八右衛門の言うことを聞く忠兵衛も、大阪商人のスタイルは知っても、そのメンタリティをよく知らない。だから、「さっきはあんなに調子を合わせてくれたのに、なんだ、裏切りやがって!」になってしまう。忠兵衛を裏切ったのは八右衛門ではなく、忠兵衛が「自分はなりきった」と思い込んでいた大阪という大都会での「一人前の商人としてのあり方」なのである。
作者名の近松門左衛門は、こういう恐ろしい落とし穴を忠兵衛の前に用意する。日本の前近代にこういう恐ろしい物語を設定しえた近松門左衛門は、とんでもない天才でもあろう。(358)
 「遊び」のなんたるかを心得ている八右衛門は、冗談の分かる人間でもある。でも、その目の奥には、女の恋を拒絶するような理性がある――そのように感じとれるからこそ、梅川は≪あのさんには逢いともない≫になるのだ。そうだとしか考えられない。うっかりすれば八右衛門を敵役にしてしまうような書き方をしていて、近松門左衛門は「しかしそうではない」と喚起するような「異物」を、しっかりと挿入しているのだ。その「異物」のありようこそが、一筋縄ではいかない「現実」の中で起こる近松世話浄瑠璃ドラマの複雑さなのだ。「現実は、そう簡単にドラマを惹き起こしてはくれない。そうであっても、現実に生きる人間は、ドラマを惹き起こしてしまう」――それが、近松世話浄瑠璃の持つ「哀れさ」なのだ。(370)

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