『浄瑠璃を読もう』橋本治 2/4

義経千本桜』と歴史を我等に

 現実に桜はないが、理念として桜はある――これが『義経千本桜』である。つまり、ここには「満開の桜」とイコールになりうる「観念の桜」があるのである。言うまでもない、源義経その人である。『義経千本桜』は、実は「義経=千本桜」なのである。そう考えないと、ピンとこない。(93)
 『義経千本桜』は、そのタイトルの見せかけに反して、かなり暗い話である。山場ごとに人が死ぬ。だから、ちっとも明るくない大悲劇である。そして、そうなっても仕方がないのがなぜかというと、これが「戦いを回避して進んで身を退ける義経」を中心とする、反戦ドラマだからである。……「明るく千本桜で、でも反戦だから暗い」――これが『義経千本桜』で、我々は、江戸時代の人が既に、「戦うのはよくない」を基本テーマに掲げていたことに感動すべきなのである。(109)
 「もっともらしいが、しかし正しくはない。しかし、もっともらしさに納得してしまえる人間が、なんで瑣末な“正確さ”なんてものを必要とするのだ?」――そう言わぬばかりの前提に立つのが、人形浄瑠璃という複雑怪奇なドラマの作者たちなのである。だから、「元暦元年四月かもしれない頃――一の谷の合戦から一年もたたない時期に平家は八嶋で滅んでしまう」と言って、これが歴史的事実からはずれていないのである。「あなたは、それでいいと思ったでしょ?だったら間違ってはいないのです」――これが、「私達の愛する源義経は、悲しく陰惨な最期へと至りませんでした」とする、歴史の改変を企てる浄瑠璃作者とその観客達の合意なのである。(115)
 「義経は、巨大な政治対立や陰謀に巻き込まれた」のではない。義経が巻き込まれたのは、「えらそうにしているせこい男のくだらない陰謀」なのである。これは、「いかにも江戸時代の町人らしい下世話な視点」であったりもするが、本当にそうか?院政末期の朝廷や後白河法皇のあり方は、「下世話になってしまった高貴な人々」なのである。旧世界の下世話があって、義経はそこに入って行って翻弄される「普通の人」なのである。私は、寿永・元暦・文治の頃の政治現実をそういうものだとしか思わないから、藤原朝方一人に「悪」を凝縮してしまう『義経千本桜』の作者達を、「鋭い」と思うのである。(117)