『グリーンバーグ批評選集』 3/4

白黒の絵画

 抽象表現主義者が描いた白黒の絵画と、中国や日本の書との類似は、単なる近似現象、偶然の結果に過ぎない。西洋絵画にとって明度対比、色彩の明と暗との対立は、自らを他の絵画芸術の伝統から区別する三次元イリュージョンの主要な手段であり、それは遠近法よりもはるかに需要なものである。白と黒の強調は、この枯渇しかかっている資源=絵画における明度を保持しようとする動きである。保持しようとする努力は、他の場合と同様、保持したいものを分離し誇張することから始められるのである。(128)

絵画と枠

 古大家たちは、絵画が平面的なものであることを目に思い起こさせるために、枠のことを心にとどめていた。これは、表面の形体を主張することである程度なされねばならなかった。セザンヌは、表面の背後にある彫刻的イリュージョンを排除したあため、過敏になった表面を取り扱わねばらななかった。そしてそれは、エッジを枠の形態に強く反響させることでなされ、これがキュビズムに受け継がれたのである。
 スティルは、形体同士の明度対比を狭めることで形体のエッジを目立たせず、それゆえ鋭いものにしないで済むと認識した。これにより、十分な奥行きのイリュージョンがなくても、表面は輪郭の複雑さに由来する唐突な不調和や衝撃を免れたのだ。(137-138)

絵画的抽象

 一九五〇年代が経過するにつれ、抽象表現主義の絵画の多くが、より一貫した三次元空間のイリュージョンを要求し始める。そのような一貫性は、原則としてただ三次元の対象の触知できる再現性を通じてのみ創出され得るものであり、デ・クーニングの一九五二から五五年の≪女≫の絵に結晶する。著書はこれを「帰する場所なき再現性」と呼んでいるが、これは抽象的な目的のために適用されはするが、再現的な目的をも示唆しつづけるような、彫塑的かつ描写的な絵画的なるもののことである。(146-147)

色彩のみの絵画

 色彩は、位置を定めて意味を示す役割から開放されることで、より自律的となる。それはもはや領域や面を特定したり、その中を満たしたりするのではなく、形態や距離の限定を多かれ少なかれ解消して、色彩それ自体のために語るのである。この目的のためには、色彩は暖色であるか、暖かみを帯びた寒色でなければならない。そしてまた明度の変化が、たとえあるにしてもほんの微かしかない均一の色彩でなければならず、さらに相対的にではなく絶対的に大きな領域に拡がっていなければならない。大きさは、漠とした空間を示唆するために必要とされる色合いの、鮮明さと同じくらい純粋さをも保証する。つまり単純に、大量の青は少量の青よりもっと青いということである。これが、絵画が二、三色だけに制限されなければならない理由である。(157-158)