『日本の橋』 保田與重郎 1/2

 新学社から出ている『改版 日本の橋』から「誰ヶ袖屏風」「日本の橋」を読んだ。
「誰ヶ袖屏風」では、秀吉の時代と永徳の才能によりはじまった桃山文化が、宗達に結実する様を述べる。

光悦宗達はその文様風絵画の早い先駆であった。その先駆というよりも、桃山の永徳らの始めた芸術の装飾化の動きを完璧に完成し、光悦の美を大成した。純粋な絵画の芸術化、また純粋な視覚の美しさを描くことは色彩の稀有の創造者宗達によって完成された。……(「蔦の細道」では、)業平も旅僧も描かずに、ただその蔦楓生いしげる宇津の山路とその物語を、無比に美しく視覚化したのである。(19)

宗達に於て桃山の金地を高価の顔料でうめつくす、智積院の追うた精神が完全に生かされた。宗達ほどに空間と空白の場所の生命を知った画家はなかった。桃山の精神は足利期の虚漠な空白の厳しさを埋めることにあった。ここで当代の早世の精神は迅雷の如き描法を選んだのである。(20)

 保田與重郎にとって、芸術とは思想や理屈ではなく、シンプルに美と趣味の領域の話であるようだ。

秀吉の醍醐の花見には、咲き誇る自然の桜樹を衣桁に見立てて、樹々から枝々にかけわたした縮緬の扱帯に、紗綾緞子綸子などの小袖を打ちかけて並べた。さういうところに通じる匂ひに、私は「誰ヶ袖屏風」の先蹤を感じ、錯覚の利用とする説に、学者めかしい最悪の合理的巷説を感じるのである。(25)