『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』 プルースト 1/4

消え去ったアルベルチーヌたちへ

失われた時を求めて』は、二十三歳のときに半年の時間をかけて読んだ本である。当時読んだ鈴木道彦訳では「逃げ去る女」というタイトルがつけられていた第六巻、それが今回読んだ「消え去ったアルベルチーヌ」である。
このタイトルを見たとき、急に『失われた時を求めて』を再読したくなった。これまでの私の生活のなかで、消え去った人たちのなんと多いことか。それらの別れについて、少し自分の気持ちを整理したくなったのだ。
この読書は、そんな自分にとっての消え去ったアルベルチーヌたちにささげられている。

唐突な別れに動揺する感情

小説の主人公にとって、恋人であるアルベルチーヌとの別れは、唐突なものである。そして、その動揺する気持ちや、恋人を取りもどすためのむなしい努力が、巻の半分、約三百ページにわたって、記述される。

アルベルチーヌに戻ってくるなと電報を打ちたいくらいだった。ところがやはりアルベルチーヌに戻ってきてほしいという熱烈な欲望が、たちまちほかのすべてをのみこんで私を埋め尽くした。いっときアルベルチーヌに戻ってくるなと言い渡してひとりで生きてゆく可能性を想定したせいで、突然それとは逆に、アルベルチーヌが戻ってくるなら、自分のあらゆる旅行や快楽や仕事を犠牲にしてもいいと覚悟していることに気づいたからである。なんということか!アルベルチーヌにたいする私の恋心は、ジルベルトにいだいた恋心に即してその命運を予測できるものと想いこんでいたが、じつはジルベルトへの恋心とはなんと完全に対照的な展開を示したことだろう。アルベルチーヌに会わずにいることが私にはどれほど不可能に思われたことだろう。(78)

主人公の動揺は、感情の変化の大きさにも反映される。次は、声をかけた少女の家族とトラブルになり、主人公が落ち込む場面。

と同時に私は、人間というものは自分で思っている以上に何らかの夢のために生きている存在なのだと悟った。というのも二度と少女をあやすことができないと知って、私は人生からすべての価値を永久に奪われた気がしたからであるが、それだけではなく、ふつう損得と死への恐怖が世の中を動かしていると思われているにもかかわらず、人がいともたやすく財産に拒絶反応をおこしたり死の危険を冒したりするのがよく理解できたからである。(77)

些細な行動が「究極の選択」のような様相を帯びるのも、主人公の動揺の現われといえるだろう。

私にはどうしても手紙を出したいと思わせる傾向と、いったん手紙を出してしまうと私にそれを後悔させる傾向とは、もっともなことながら、べつの意味でどちらもそれなりの真実を含んでいる。前者の傾向とは……要するに、現下の苦痛にいますこし辛くないはずと想像されるべつの形をとらせようとしているのだ。しかし後者の傾向も、それに劣らず重要である。……この傾向は、やがて欲望の充足を目の当たりにしたときにわれわれが覚える幻滅のはじまり、いや、その予感されたはじまりにほかならず、自分のために幸福の形をこれだけと決めてしまい、ほかの形を犠牲にし排除したことへの悔恨に他ならないからである。(106-107)