『村上春樹『1Q84』をどう読むか』

2009/9/27読了

僕らだけじゃなくて、メディアの二次三次情報にとどまらず、信者と接触したり直接調べた人は皆同じものを感じていると思うけど、まず信者たちの邪気のなさですよね。それが一番のポイントだと思います。あの凶悪な事件と彼らの性質とのブレについて、思い惑わざるをえない。メディアが伝える彼らはとても凶悪で凶暴、あるいは洗脳された不気味な存在であるわけで、明らかに現実とはズレがあるけれど、でもこの国のリトル・ピープルたちは激しい憎悪に身を焦がし、社会を内側から変質させてしまった。その帰結のひとつが、麻原は一審判決だけで死刑確定というありえない展開です。あの老婦人と青豆たちだってカルトですよね。自分たちの正義を信じ切っていて、邪悪な人たちは別の世界に行ってもらわなくてはいけないと言っている。要するにポアです。(31;森達也)

ふかえりの物語は一種のワクチンだ。天吾によるリライトは、抗原を弱毒化して病原性のないワクチンを精製する作業に似ている。ふたりでつくった「ホン」は多くの人々に投与され、人々が抗体を作る手助けをするだろう。リトル・ピープル=システムに対する抗体を。
理解するものは語ることができず、語るものは理解することができないということ。パシヴァとレシヴァ、あるいは知覚者と受け入れ者の分業関係は、ここから生ずる。もちろん彼ら単体では、それぞれが抱えた欠損ゆえに、システムに対抗できない。しかし、そんな彼らのカップリングこそが、システムに外部を作り出すための、ほとんど唯一の方法なのだ。
個人や集団の同一化を促す物語ではなく、あらたな関係を媒介し、また関係によって媒介される物語。それは性急に解読されるべきではない。それはまず記憶され、関係の中でくり返し語り直されるべきなのだ。『1Q84』もまた、まさにそのような物語のひとつとして書かれたのではなかったか。(80;斎藤環)

(ビッグ・ブラザーは)標準英語である「オールドスピーク」の替わりに「ニュースピーク」を考案し、それによって市民の反体制的な思想を規制しようとしたのである。しかし、川端康男によると、オーウェルは「ニュースピーク」の不可能性を、ほかでもない『一九八四年』の「多声的で対話的な」語りそのものを通して証明しているという。つまり、思考統制によって抑圧された主人公が見る悪夢を物語る「声」が、単声であろうとする体制への対抗的なモーメントとなっているということである。これと同じように『空気さなぎ』では、物語と読者とのこだまのような共鳴が、ビッグ・ブラザー不在の=リトル・ピープルの台頭する世界で「反リトル・ピープル的モーメント」になったのではないだろうか。
このように『1Q84』で村上春樹がわれわれに示したのは、「声」の良く通る「骨と皮の物語」に耳をすませ、そこに読者ひとりひとりが想像力を持ちよって「血と肉」を付け加えていく過程である。インターネットにより人と人とが簡単につながるように見えて、実際は他人との結びつきが薄いこの社会において、声で語られる物語を大勢で聞いているときのような「場」を形成し、物語に有機的な変化を起こす――これこそが本という「部屋」の持つ力なのだ。(186;上田麻由子)

村上春樹『1Q84』をどう読むか

村上春樹『1Q84』をどう読むか