プルーストによる恋愛のテーゼ 『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』 2/4

物語の前半では、亡きアルベルチーヌへの想いに打ちひしがれるとともに、主人公の独白を通し、「恋愛のテーゼ」というべきものが語られる。

自分がどんなことでも話すことができ、心中を打ち明けることのできる、こんな崇高な人には二度とめぐりあえないだろう、と私は思った。心中を打ち明ける?だがアルベルチーヌよりもほかの人たちのほうが、私はもっと多岐にわたるおしゃべりをしたのではないか?そのとおりだが、なぜそんな事態になるかといえば、信頼といい会話といい、そもそも凡庸なものだから、そこにただひとつ崇高なものたる恋心さえ混じれば、信頼や会話の不完全さの程度など問題にもならないからだ。(183)

フランソワーズから「アルベルチーヌさまはお発ちになりました」と告げられた日のアルベルチーヌとの別離は、さほど目立たないが、ほかの数多くの別離の寓意といってよかった。というのもわれわれは、自分が恋をしていると気づくために、もしかすると恋をするためにさえ、別離の日の来ることをしばしば必要とするからである。(201-202)

この文章やその次の文章を読むと、恋愛とはそれに夢中になっている最中ではなく、それが終わった後に、ああこれが恋であったのかと気付くものであるかのようだ。
言いかたをかえれば、恋愛とはそのものを定義できるものではなく、ある人物とのひとつひとつのエピソードを積み上げていった結果、(表現が適切かわからないが)ネガからポジに転換するように、遡及的に浮かび上がってくる感情なのだ。

したがって、私の選んだ女がいくらアルベルチーヌに似ていようと、また私がその愛情を獲得できたとして、その女の愛情がいくらアルベルチーヌの愛情に似ていようと、そのような類似は、私がそうとは気づかず求めていたものが、つまり私の幸福の再生には不可欠だったものが不在であること、要するにアルベルチーヌ自身が不在であること、ふたりでいっしょに暮らした時間や私がそうとは知らず探し求めていた過去が不在であることを、いっそう痛感させられるだけであった。(304)