『少年愛の美学』 稲垣足穂

 澁澤さんのエッセイによって知ったこの本。読む前は、内容や著者に対する予備知識がなかったため、タイトルから幻想的、耽美的な記述を想像していた。しかし、実際は「尻」「ヒップ」からひたすら連想が広がっていく、エロ・グロ・ナンセンスというか、お下劣な内容。しかし、内容が薄いというわけでは決してなく、一定の教養がなければ楽しめない。
 作者も、この本を書きながら童心に帰って楽しんでいるかのよう。そういえば、子供は下品な事柄がすきなものだ。
 下記は印象に残った部分の抜粋。。起承転結があるわけではなく、またどの頁も似た記述であるため、これらの引用を読めば、本の持つ雰囲気を良く感じ取れることだろう。

 人々には、P乃至Vを彼らの唯一の身上として重視するきらいがある。彼らの生活主義的安直さは、思うにこの陥穽のせいである。読者は追々に了解してくれることであろう。V感覚というのも、(私の見解に依ると)もともとA感覚から分岐、あるいはA感覚を後見役として、初めて成立しているものなのである。(46)

 そもそもAとは、厭うべき総てのもの、日常生活とは引き離しておくべきものの表象である。それと同時に、Aは、「渾沌の世界」「覗いてはならぬ界域」を代表している。そこは、絶壁上に忘れられた高原、人の気付かぬ瀑布の所在地、さては天体画的な深淵であって、それ自ら功利打算の外におかれている。しかもこのつつましい空隙は、用便時を除いては全く顧みられない。否、むしろ敬遠されている。このような不遇には、なにか老子の、「俗人昭々我独悶々」のおもむきがある。(75)

 下は「A感覚」が何となく分かる文章。

 これに反して大人は、髭剃りの痕が痛い、ワキガ臭い、煙草のヤニがしみた、発育過度な、実用化された子供である。ここでは可能性は疾くの昔に行き過ぎになって、いまは空廻りをしている。少年的可能性の台であるところのVorlustにいったんEndlust的な要素が加わるならば、折角のエネルギーは、種の保存、自己保全、世間ばなしの方へ曲げられてしまう。もしも少年レオナルドが、「自分は社会に対して何らかの直接的な義務を負うている」などと考えたりしたら、それは彼自ら欺瞞すると云うものだ。……大人らは、人がそれである処のものよりも、人が持っているもの、人が外部に顕わしている処のものに意を注いでいる。彼らは、このような外的目標への手段を超えた事柄についてはもはや知ろうとしないし、そのための感受性すら喪失している。彼らの折角のVP両感覚すら外的に行使されて、しかもそのつどそのつどに不幸な反応を彼らに与えるにとどまっている。彼らにおける「花車風流」も、だから美術品蒐集、造園、魚釣り、ゴルフ、狩猟等々を出ることはない。それらは即ち彼らにおけるV感覚的幻想の反芻に他ならないのである。(167-168)

『ウルフェルデン報告』は、イギリス全国民の四十パーセントが同性愛者だと云う。そこまで突きとめる必要はないが、たとえば世の男性の約二十パーセントに、「女性のみに頼っておられぬ」という気持ちが存することは疑えない。女の子のつまらなさは、要するに相手が相対的存在を出るものではなく、男児のような絶対性がそこに見られないという点に存在する。「このような者に精魂を凝らすには当たらない」ということを、最初の瞬間にこちらに感じさせてしまう。何事にせよV感覚の介入は、恰も抽象的な交響曲に独唱乃至合唱がまじっているような興ざめである。(295-296)

少年愛の美学 (河出文庫)

少年愛の美学 (河出文庫)