『江戸にフランス革命を』橋本治 2/5

 引用した文章からは、その後『ひらがな日本美術史』で展開される橋本治の思想が読み取れる。
 例えば、歌舞伎で過去の歴史的人物の話が、江戸の人間にとって「リアリズム」であるというのは、宇宙人のような土偶の顔が、古代の人間にとってリアルなものであったという主張につながるし、「サッと手早く破される傘」は、戦国時代の飾り兜がもつ、自分を強いと思わせる「実用性」に通じる。
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歌舞伎の論理
・≪時代世話≫という時間概念を導入し、すべての結末を曖昧の中に断ち切る。すべての論理を無効にし、"その中にいる"ということ以外不可能になる。
・歌舞伎は"日常"からやって来る観客に"非日常を提供する。スターや芸人は他人に非日常を提供するために"非日常"という余分を買う。その日常が尋常なものでないのも当然である。
・幕府にとって町人娯楽であった歌舞伎は関係がないものである。問題が生まれるとしたらそれが関係を持とうとすること――その一つが批判である。現在の風俗・事件をそのままドラマとして脚色することを幕府が禁じたのはその為である。(82-85)
 江戸に"哲学"なんかないと思うのは"様式している"ことが江戸のすべてだからだろうと思いますね。"様式している"ことこそが江戸の"てつがく"なんだ、と。
「じゃァ哲学ってなんだ?」って訊かれたら、そんなもん知りません。「ひょっとしたら"哲学"なんてものはなかったんじゃないの?人間の歴史っていうのはみんな、その時代その時代の"その時代している"という実質の積み重ねでしかないんだから」というのが正解なんじゃないのかって思いますから。……もう、ゼェーンブ"江戸"なんだと思うけどな、歴史なんか。ディテールの塊がただそこにある――ただそれだけだから分かんないって言うのは、単なる無精の問題でしかないんだと思う。(114-115)
(歌舞伎の舞台で二枚目がパッと音を立ててカッコよくさす傘が必要とされるように、"サッと手早く破かれるような傘”だって必要なのだ。これを作るのが小道具方の仕事であり、カッコよくさす傘とは違う管轄となっている。)
 我々は実は、「たとえおんなじものであっても、その置かれるシチュエーションが違ってしまえば、同じものがまったく違う意味を持つ」ということに気がつかないでいるだけなのです。"意味が違う"という本質だけを見て、「ただ傘であることだけが同じ」でしかない"表層の類似"にはまったく目もくれない、その江戸の専門職の質の高さに目を剥くべきなのです。(142-143)