『ひらがな日本美術史2』 橋本治 1/3

平治物語絵巻」

 優雅な王朝の時代にも″むくつけき男の欲望″はあった。それが隠されたまま存在していて、院政時代になって芽を出してくる。″戦争″とはそれである。″戦争=男の徳望″が当たり前の武士の時代になって、それを描く技術、あるいはそれを「当たり前」と思う感性が定着する。それが鎌倉時代の後期なのだ。実際の平治の乱から≪平治物語絵巻≫までに要した百年以上の時間は、そういう感性の成熟、あるいは常識が定着するまでの時間なのだろうと、私は思う。(37)
 だから私は、「そうか……、男の時代はこうやって生まれたのか」と思う。優雅の中で平然と生々しい男達の姿を、「それでも十分に古典的だ」と、美しく思う。″古典的″とは、このように、生々しさと優雅が同居しているものなのであろう。″中年の牛飼い童″がいる平安時代とは、そもそもがそういう時代だったはずなのだから。(45)

「北野天神縁起絵巻」

 彼らの腕――あるいは彼らの体は、もう″絵を描く″ということがどういうことなのかを、十分に理解していた。絵を描く上で″線″というものが重要なことは重々承知していて、しかもその技に十分熟達していて、しかもその上で、「絵を作るということが″おもしろいこと″じゃなかったらいやだな」と思っていた。なにかの根拠があって言うわけではない、ただこの絵巻物の絵を見て、私は「そうに違いない」と思うのだ。……
 この絵巻物と似通った感じを持つものを、後の時代に発見することができる。それはたとえば、俵屋宗達の≪風神雷神図屏風≫であり、尾形光琳百人一首を描く≪歌留多≫である。「大和絵の復興」をめざした江戸の琳派は、この≪北野天神縁起絵巻≫にストレートにつながる。この人達もきっと、鎌倉時代の「大和絵」を、「派手で陽気でエネルギッシュで楽しいもの」と思ったのだ。それでなければあの琳派の魅力は生まれないだろう。(66)

藤原定家「小倉色紙」

 この章に掲げられた≪小倉色紙≫には、仮名だけで、「こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもいそめしか」と書いてある。別に難しいことはなにもない。真似して書いてみたくもなる。……
 真似をして、しかしあなたは、すぐに「うまくいかないな」と思うであろう。やっぱり藤原定家の書は、奥が深いのである。「奥が深い」とは、「真似してみようと思ってもなかなかうまく真似が出来ない」ということなのである。
 この色紙一枚に千両の金を払った大名が、果たしてこの≪小倉色紙≫の″簡単な価値″が分かっていたかどうかは知らないが、「奥が深い」ということは、存外簡単なことなのである。(86)