『フーコー<性の歴史>入門講義』仲正昌樹 3/4

第三巻『自己への配慮』

ローマ帝国の時代には、性的関係をいろんな方面に広げることに不安を覚えるようになり、婚姻関係に集中しようとする傾向が出てきて、それが結果的に、婚姻・禁欲を重視するキリスト教道徳に近づいていく。(252)
・生活から余分なものを省くという禁欲節制の発想は、エピクロス派とストア派で共通している。前者では「あらゆる余分なものから快感を得るよりも、もっと充実した、もっと純粋な、もっと安定した楽しみを見つけ出すことができるか、を明らかにすることが重要」であり、後者は「習慣や意見や教育や評判への配慮や見せびらかしたい気持ちなどのせいでわれわれが執着したすべてのものを、なしですませることがどんなに容易であるか発見しつつ、予測可能な不自由な事態に対して心構えすることが重要」であった。(269)
・古典時代の倫理は、美しい生き方のスタイルを自らのイニシアティヴで作っていくという感じだったが、ローマ時代は自分の弱さによる心身や生活の破綻に気を使い、「自然もしくは理性という普遍的原理」に従うようになる。そのうえで、欲望ゆえの不安がない、エピクロスストア派的な状態を目指すことになり、性自体を悪とみなすキリスト教的な考えに近づいていく。(274)
・古典主義時代の家長=市民は、基本的に自分自身の主なので、自分独自の美的生活様式を確立し、倫理主体になればよかったが、ヘレニズム時代、帝国ローマ時代の市民は、国家に仕える臣民でもあり、国家に対する義務も負っていたため、どの方向に主体として自己を形成すればよいか、葛藤が生まれてきた。(279)
・そのような状況から、「主体化(subjectivation)の危機」、つまり自分の存在に合目的性を与えることを可能にしてくれるものが見出せないという危機が発生した。(281)
・性行為に関しては、身体とのバランスを考え、控え目にすることとという、古典期と同じ考え方であったが、医学的な見地から身体の不安定性を強調し、用心深くなっており、結果的にキリスト教的な身体への警戒感に近付いている。(289)
・夫婦関係については、ムソニウスのような哲学者から、共同体的な関係の中で最も重要な、独特の位置を占めているものだという考え方が出てきた。自然と繋がってくる血縁よりも、夫婦という形で、当事者の意思によって人為的に形成される共同体の方が重要である、という考え方である。(315)
・帝政期=ストア派の時代は、夫婦間以外での性が制約され、逆に夫婦間での性に特権的な意味が付与された。夫婦間の性交渉に関しては、共同体の構築のために性的快楽を積極的に活用しようとする積極的思想と、それを夫婦の関係に限定しようとする思想が一体となっていた。(328)
・若者愛と夫婦愛、性的快楽と結婚の関係などをめぐって様々な言説が拮抗していた時代に、純潔系の考え方、すなわち「ふたりの恋人が結婚のときまで保持すべきは、自分たちの肉体的な清らかな完全性であるのみならず、心の清純さなのであって、結婚というものは、肉体面だけでなく精神面においても理解されなければならない」という思想が現われる。これは、古典期にはなかった発想であり、キリスト教倫理に向けた変化が見てとれる。(337)