『フーコー<性の歴史>入門講義』仲正昌樹 2/4

第二巻『快楽の活用』

ストア派の哲学者、アレタイオスの著作からは、性を浪費すると体が衰弱するので控えるべきという教訓が述べられる。これは健康上の理由だが、キリスト教時代には信仰上の理由に変更したうえで、引き続き性交の抑制が推奨される。そして一八世紀からは、科学的な言説により同じことが語られる。フーコーにしてみれば、医学主導になったのだからキリスト教以前に回帰しているとも言える。(151)
ギリシャ・ローマ時代には、家長(=男性)がどう自分を磨くべきかという問題、「様式化(スタイル)」に関わる問題設定のなかで、結婚生活においてや、少年との快楽の実践が語られた。(155)
・高い社会的地位にある人たちには、その身分にふさわしい品位ある態度をとることが求められた。その実践が「節制」であるが、それは決して禁欲道徳ではなく、適正な快楽の享受が目的であり、例えば快楽を行なう時期(生涯のどの時期か、一日のうちいつか)も問題になる。(171)
ギリシア・ローマ時代と、キリスト教時代で、道徳主体になるための厳格さが求められるのは同じでも、愛欲(アフロディジア)の享受のため分別を働かせるのと、欲望をできる限り抑制するという方法の違いがある。前者は「男らしさの型=自己による自己の完璧な支配」、後者は「処女性・純粋さ=自己の放棄」として対比できる。(180)
・『知への意思』では、近代医学の「性」への関わりが論じられるが、それは生物学や生理学を基礎としての干渉だった。一方古代では、同じ問いが哲学と繋がり、性交が道徳主体として自己を確立するための前提を揺るがす可能性への懸念から、問題にされたのだ。(197)
プラトンは「愛の対象の選択」に関する記述のなかで、男性や、妻以外の女性との関係を禁止し、処罰の対象とする提案をしている。しかしその理由は「良き生殖の諸条件」を護るために設定する処罰であり、キリスト教時代の貞潔義務の精神とは関係がなかった。(211)
ギリシアの恋愛(若者愛)では、欲望を掘り下げて、自分のなかの真理(=自分は何者かという真実)を見出すことが目指される。それがキリスト教では、真理のための絶対的な禁欲というものに変節してしまう。(234)