『卵のように軽やかに サティによるサティ』 エリック・サティ

音の透明さについて

 ストラヴィンスキーの音楽の特徴のひとつは、音の<透明さ>である。この特徴は、正真正銘の大家につねに見出されるものである。彼らは自分たちの音響にけっして<かす>を残さない――このかすは印象派の作曲家たちの<音楽素材>のうちにつねに見出されるし、さらにはなんと、何人かのロマン派の音楽家にさえ、見られるものである。
 パレストリーナはわれわれにこの<透明さ>を<聴く>ことをさせた。彼はその操作をひじょうによく心得ており、この現象を音楽に移入した最初の人物であったように思われる。
 洗練されたモーツァルトはそれをたいへんうまく使いこなしたので、どのようにしてそこまで行けたか、創造もできないほどである。これほどまでの卓越した技量、音に対するかくも鋭敏な洞察力、こんなにも穏やかで完璧な音の明晰さを前にしては、人はただただ啞然とするばかりである。(77)

家具の音楽

「……何かそれに重要な含みがあるなどとはお考えにならずに、休憩時間のように、音楽などは存在しないかのように振舞われますよう、切に皆様がたにお願い申し上げます。
 家具の音楽は何気ないプライベートな会話、ギャラリーにある絵画や誰も座っていない椅子、そういったものとおなじありようで、人間の生活に寄与することを願っております………」
家具の音楽は根本的に工業的なものです。これまでの習慣では、音楽は音楽とは何の関係もないそのときどきにつくられるものでした。そこで演奏されるものは、オペラのなかの“ワルツ”とか“幻想曲”といった類いのもの、何か別の目的のために書かれたものなのです……」
「……私たちは、<有用性>の要請をみたすようにデザインされた音楽というものを確立したいのです。
 芸術は、そのような要素をもってはいません。家具の音楽は空気振動をつくりだします。それ以外の目的なんてありません。それは光や熱と同じ役割を果すのです。――あらゆる形態をとりながら、<人に快適さを与えるもの>として。」(119-120)

ナンセンス、するどい警句

 私は以前、気がひけて自分の家では絶対に寝る気がしないという哀れな男を知っていた。自分の名前は外で寝るべき名前だ、というのだ。この思い出は私にとって不愉快なものではない。(162)
 私は私に敵対する者たちとまったく同意見である。芸術家が宣伝を利用するのを見ると、嘆かわしくなる。とはいえ、ベートーヴェンが広告下手であったわけではない。そのおかげで彼は知られるようになったのだ、と私は思う。(176)
 若いのは楽しいことだ。老いることさえなければ。(年老いた肉体に若い精神をもつことは可能だ)。(188)

「訳者あとがき」より

 音楽はつねに日常生活や環境と無関係ではない。そうした日常性や現実を誌的に清冽にうたいだしていったサティの音楽こそ、いまクラシック音楽界にもポピュラー音楽界にも、ある今後の音楽の示唆をし、問題提起をしているといえるかもしれないではないか。
 ジョン・ケージはこう語っている。
「サティが生き、そして創造りだしていった芸術こそが芸術なのだ。芸術は生活や人生と別なものではない。その意味では皿洗いでさえも同じことなのだ」
「サティは教会にいるのと同じアット・ホームな気持でナイト・クラブにもいたのだ」。(306)