『小鳥たちのために』 ジョン=ケージ 2/3

・(生活としての芸術とは)<芸術としての生活>を望むとしたら、私は唯美主義に陥ってしまうかもしれませんね。なぜなら私がなにかを、生活に関するある観念を押しつけたがっているように見えるでしょうから。音楽は――少なくとも私が考えているような音楽は――なにも押しつけないと思いますよ。音楽は私達の見方を変え、私達を取り巻くあらゆるものを芸術として、私達に見つめ直させることができるでしょう。でもそれは目的ではない。音は目的をもってはいません。音はただ在るんです。音は生きているんです。音楽とは、音の生であり、生への参与であり、そして――故意にではなく――生は音に参与するようになるはずです。音楽それ自体は、私達になにも強制しません。(70) ※音楽は生活のなかの音に対する気づきを与えるということか?
・なにも強制しないこと。あるがままにしておくこと。各々の音と同じように、それぞれの人が世界の中心であるのを許すこと。(86)
・(バックミンスター・フラーの思想について)私達は今まで有用なもの(ユーティリティ)を混乱させることしかやってこなかった。それを生産と所有の要求に従わせてきたけれども、本当はテクノロジーからもたらされる利益を普及させていかなければならなかった。私達はもう機械によって労働から解放される段階に来ているはずでしょう。そのためには世界的な規模で、秩序と無秩序の基準を考え直さなければなりません。テクノロジーを働くに任せ、あるがままにしておかなければなりません。(96)
・ありうることすべてを、そしてありうることすべてに対して開くこと、それこそおそらく私の探し求めていることなんです。(144)
・原則や支配は忘却を助けるものです。それ自体が忘却なんです。それは存在するものから私達をそらせてしまうのです。……論理や組織や支配といったものが忘れ去られるべきなのは、それらがまず私達に本質を忘れさせるところから始まっているからなんですよ。……私は、自分の音楽を自分の生と見合うものにしようとしているんです。私の音楽が自由で、目的を持たないように。つまり対象物(オブジェ)を持たないように。(145)
・(様々な芸術が対応するという考えについて)私は<対応>をそれほど信じていないのです。私にはむしろ対話があるように思えます。つまり様々な芸術は伝え合うのではなく、互いに話し合っている、それらが互いに無関係であればあるほど、対話はより有効なんです。(161)