サティ ノクテュルヌ(高橋悠治)

 エリック・サティとの出会いは、今でもはっきりと覚えている。20年前の3月、小野田英一氏が司会をしていたTOKYO FM「JET STREAM」で『ジュ・トゥ・ヴゥ』が流れたときだった。ラジオを聴いていると、時々「これだ」と感じる音楽がある。当時の私にとって、この作品はまさに、自分が欲していた音楽だと思えたのだ。
 『ワルツ=バレエ』に『幻想ワルツ』、『ピカデリー』。少し甘ったるくて、おしゃれな音楽。ピアノ愛好家なら、ぜひ弾いてみたくなる素敵な曲。サティの音楽は、このようなイメージを持たれることが多い。彼が目指していたものは「家具の音楽」。上にあげた初期や中期の作品は、心地よいBGMとして、今でも多くの場所で耳にする。
 しかし、もちろんサティはそれだけの作曲家ではない。前衛音楽家でもある彼は、次の文章を残している。

 和声論はゲームの規則ではない。それは(今日までのところ)使われなくなってしまった公式集にすぎない。それを役に立たせるためには、ちゃんと現状に合ったものにしておけばいい。われわれの和声の<年鑑>がすべて十九世紀半ばのものだということを、思ってもみなさい。それらは出版されたときでさえ、最新版とはいえなかった。ああ、悲しいことに、年とともにますますそうではなくなっているのだ。最近出たものも、すばらしくも滑稽な、その先行者をはてしなくコピーしつづけているにすぎない。(『卵のように軽やかに サティによるサティ』P189)

 晩年の作品『ノクテュルヌ』では、このように言うサティが作りだした、現代的な響きを聴くことができる。
 この作品は一九一九年、作曲家人生の最晩年に作られたものである。しかし、その響きは、二〇世紀初頭のそれではない。静謐でどこか甘美であり、ヒーリング音楽のようでもあるこの作品には、世紀の末までも射程におさめているかのようなモダニスムがある。
 以前、マーラーの「第三交響曲」から受ける印象として、世紀末の東京の風景をあげたことがあった。しかし、その狂騒の裏には、暗いひっそりとした、そして居心地の良い風景も確かに存在していたはずだ。そのような場所では、この『ノクテュルヌ』のような音楽が奏でられるだろう。
 ベル・エポックのパリから、世紀末の巨大都市のなかへ。この飛躍する距離を思うとき、私は、この作曲家の途方もなさを感じるのだ。

サティ:ピアノ作品集1

サティ:ピアノ作品集1