マーラー 交響曲第五番(バーンスタイン)

 マーラー交響曲の中でも、最も人気のある五番。私が唯一コンサートホールで聴いた、この作曲家の作品でもあります。
 その時の目的は、有名なアダージェット。ただ、生で聴くのを非常に楽しみにしていたにもかかわらず、作品を聴き終わり高揚感を得るようなことはありませんでした。
 今回マーラー第五を聴き直し、その意味が少し理解できたように思えます。この作品を聴くには、アダージェットに焦点を合わせてはいけない。むしろ、それ以外の楽章。とくに第一〜第三楽章をメイン・メッセージとしてとらえるべきであり、それにより以前はぼやけていた曲の印象がくっきりしてきたように思えます。
 よく言われるように、作品全体は「暗から明」への流れとなっています。その「暗」が描かれるのが第一楽章となりますが、それは運命的な苦悩というよりは、もっと複雑なストレス。そしてこのストレスは最終楽章までこの作品を支配し続けます。
 この「暗」の感情は非常に複雑で現代的なものであり、力技で乗り越えることはできない。そのため、第二楽章の勝利の旋律は、つかの間のとってつけたもののように響きます。また、第三楽章では、明るい曲調が第一楽章で現れたメロディーによって暗転し、それは享楽のむなしさを表現しているようです。第三楽章ではその後もワルツが続きますが、決して楽しいだけのものではなく、どこか皮相的な印象となっています。
 この流れの中で、第四楽章アダージェットの美しい旋律は何を訴えかけるか。それは文字どおり、「ただの美しい音楽」ではないでしょうか。交響曲第三番の最終楽章アダージョでは、畳みかけるような美しい音楽が天国的な救済へとつながります。しかし、第五番のアダージェットは、曲の長さも短く、うまくまとまりすぎて尻切れトンボのような感じも受ける。それは、第一〜第三楽章と最終楽章をつなぐ、きれいな間奏曲のつもりで作られた楽章ではないか。
 結論を出す前に、最終楽章に行くと、そこでは様々な動機が音の混沌の中に吸い込まれていくような、複雑な構成となっています。その混沌の中からファンファーレが導き出されますが、それもとってつけたような印象で、第一楽章で奏でられるストレスは最終的に打ち負かされず存在し続けます。
 思うに、交響曲第四番がそうであったように、第五番も実はマーラーの皮肉が込められた作品なのではないでしょうか。それは「暗から明へ」と突き進む古典的な交響曲の、壮大なパロディーともいえるものです。
 作曲家自身は、この作品を「誰も理解していない」として呪ったそうですが、それはこのような意味でのことでしょう。しかし、作品が作られて百年以上が経過した現代においてすら、この美しい音楽を、パロディーとして捉えるのは、まだ勇気がいることです。