マーラー 大地の歌(バーンスタイン)

 マーラーは、その作曲家人生の中で、何度かの「変身」を行っている。『大地の歌』は、最後の変身を行った後の音楽。いわば、最終形態となったマーラーが作り上げた音楽といえるだろう。
 異国の文化が怒涛のように流れこんでいた二〇世紀初頭の欧州。以前より民謡を自作に取り入れていたマーラーであれば、東洋の音楽を取り入れるというアイデアは、既に存在していたはずだ。彼の変身によって、そのアイデアは迷いのない確信へと変わり、『大地の歌』が生まれたのだ。
 では、作曲家をその最終形態に生まれ変わらせたのは何か。それは、死期が明らかなものとして見えてきたことではないか。残された時間が少ないなかで、何を生み出すことができるか。音楽からは、ロマン派の次の時代を作るという天才の決心が聴こえてくる。

 そういうこととならんで、というより、それよりもまず、私は寿命が数えられたと知った時の人間が、生活を一変するとともに、新しく、以前よりももっと烈しく、鋭く、高く、深く、透明であってしかも色彩に富み、多様であって、しかも一元性の高い作品を生みだすために、自分のすべてを創造の一転に集中しえたという、その事実に、感銘を受ける。(『吉田秀和作曲家論集1』P151)

 死への恐怖は生への憧れの裏の面である。
 もう一度、生きたい。生きて愛したい。青春を、愛を、自然の美しさを、心ゆくまで味わいたい!春に酔い、秋の孤独をしみじみと味わいつくしてみたい。かつて、自分はあんなにひとりぼっちだったが、しかし、今にしてみれば、その孤独の中で、自分はいつもよりずっと充実して生きていた。それが、間もなく、許されなくなる。生きたい、もう一度!……
 いつの間にか年を重ねてきた今となって、聴くたびに、この音楽の中から、私に聴こえてくるものは、この声だ。(同P155-156)

 曲は全部で六曲。異国趣味がただよう五曲目までに対し、最終曲は趣を別とする。ここには、東洋的な旋律と思想を通過したうえで、新たなマーラー像が立ち上がってくる様相が見られる。
 最後に描かれるのは、「天国」の風景。しかし、それは交響曲第八番で描かれた天国とは違う。「彼岸」あるいは「あの世」といった言葉で形容される世界。

 旋律は最後にいたって、中断した形で、まるで青い空の彼方にとけるように消え去り、和声はド・ミ・ソの主三和音に6度のラ音を付和した形で、終結する。これは、私にはあたかも、まだ真の終わりに達していないのだから、たとえ決別はしても、まだ、もう一度回帰してくる希望のすべてが閉ざされきったわけではないことを暗示しているかのように響く。「終わりではない。大地との別れは、けっしてすべてとの決別ではないのだ。これはしばしの別れにすぎない。何かが残るはずだ。何かがまだあるはずだ」(同P163)

 マーラーは最終形態となった。次の交響曲第九番では、この最終曲で見いだされた世界のつづきが、描かれるだろう。

マーラー:交響曲《大地の歌》

マーラー:交響曲《大地の歌》