『昔話の深層 ユング心理学とグリム童話』 河合隼雄 1/2

心の退行

 貧乏や飢饉という物質的な欠如性は、心の内部のこととして見れば、心的エネルギーの欠如を示すものと考えられる。人間の自我は、その活動にふさわしい心的エネルギーを必要とする。ところが、その心的エネルギーが自我から無意識へと流れ、自我が利用しうるエネルギーが少なくなる時がある。それを心的エネルギーの退行という。
 このような退行状態では、人は活動できないし、意識的統制の少ない空想にふけったり、幼児的な願望が強く前面に出てきたりする。退行状態におちいると、われわれは他人の少しの親切を無闇にありがたく感じたり、少しの冷たい仕打ちを極端に冷酷に感じたりする。それは、現実とずれたものではあるが、観点を変えると、より真実を把握している。――拡大した形で――とも言うことができる。(71-72)

もう一人の私

「暗い像がわれわれの夢に立ち現われ、何事かを欲するとき、それが、われわれのたんに影の部分を人格化したものか、あるいは自己の人格化か、その両者なのかわからないのである。その暗い同伴者が、われわれの克服すべき欠点を象徴しているのか、受けいれるべき意味のある生き方のひとつを象徴しているのかを前もって区別することは、われわれが個性化の過程において出会う最も困難な問題のひとつである」
 確かにわれわれは「前もって区別する」ことはほとんど不可能である。ここで、弟が悪と感じた兄を切り、その後で深い悲しみを体験する行為によって、影の自覚と救済を成し遂げたことは示唆深い。体験がわれわれに物事の区別を教えてくれる。(139)

「時」は満ちる!

 昔話にはすばらしい「時」の強調が見られる。前章に論じた「二人兄弟」について、兄がちょうど弟の危機に現われてくることを指摘して、リューティは昔話では主人公がちょうどうまい時に出てくるものだと感嘆している。しかし、われわれの人生においても、このような「時」は存在する。われわれは時計によって計測し得る時間としてのクロノスと、時計の針に関係なく、心のなかで成就される時としてのカイロスとを区別しなければならない。時計にこだわる人は、重大なカイロスを見失ってしまう。(165-166)

石化、そしてあがない

 ヨハネスの動きは、言ってみれば若い王の無意識の動きであり、それによって新しい世界像がもたらされようとしていた。そのとき、それに信頼を寄せることができなくなるやいなや、ヨハネスは石化してしまったのである。つまり、無意識の動きを受けとめる自我の態度が適切でないときに石化が生じる。ここで、ヨハネスがたんに死んでしまうのではなく、石化してその姿をとどめたことは、その失敗がそのままの形で固定され、あがなわれないままに残されていることを意味している。
 王と王妃は寝室のわきにあるヨハネスの像をいつも見ることによって、心の痛みを常に新たにしなければならない。石像の存在は忘却を拒否するのである。(189-190)