理想と現実の、すさまじい断絶 ―『中世の秋1』ホイジンガ 3/6

 中世末期という時代に関して、とくに著者が主張しているのは、中世が形式やメンツを重んじた時代であること、そして、それと現実との間には断絶があったこと。

 中世末期の文化は、まさしく、この視覚のうちにとらえられるべき文化なのである。理想の形態に飾られた貴族主義の生活、生活を照らす騎士道ロマンティシズムの人工照明、円卓の騎士の物語のよそおいに姿を変えた世界。生の様式と現実のあいだの緊張は、異常にはげしい。光はまがいで、ぎらぎらする。(78)

 形式へのこだわりの背景には、「身もふたもない現実」への恐れが伺えることもある。

 作法を重んじる感情はあまりにも強く、それゆえ、エティケット違反は、今日なお東洋の諸民族にみられるように、致命的な打撃となって、深く名誉を傷つける。結局、作法の無視ということが、むきだしの現実の前にはただ身を屈するほかはない、高く純粋にして独特な生活という美しい幻想を、むざんにもぶちこわすからである。(99)

 人びとの心にいだかれた、国家、社会の美しいイメージのなかでは、それぞれの身分にそれぞれの役割が、有用性の見地からではなく、ただ、その聖性の輝きに照応してわりあてられている。聖職身分の腐敗を嘆き、騎士の徳のすたれを悲しむ声はたしかにある。だが、だからといって、理想のイメージを捨てさるということは、人びとのよくなしうるところではなかった。……中世人のいだいた社会のイメージは、静的(スタティック)であって、動的(ダイナミック)ではない。(128)