『沖縄文化論』 岡本太郎

2010/9/4読了

現代芸術と沖縄文化の関連

現代芸術はその一般的官僚化、小市民化に対しての告発であり、失われた時間の奪回である、それは人間生命の暗闇から根源的な感動をひき出し、純粋な形で叩きつけようとする。――西欧精神が究極としてうち出した、なるほど徹底的は反抗であるが、とかくそれは抑圧された自由への告発である。それを果して自由というべきだろうか。抑圧への反抗、即自由であると考えるのは錯覚だ。
いったい、もっと平気で、素っ裸のままの時間というのはないのだろうか。底抜けで、無邪気で。
ところでこの沖縄の裸足や石垣、その生命の持続に感動すれば、血の中に同質の時間が流れはじめる。それはまるで流れでる口を待っていたかのようだ。(75-76)

琉球舞踊の印象

日本舞踊のしなとか、バレエに見られる問いかけのような身ぶり、観客への訴えみたいなものがまったくない。悲しんで見せたり、喜んでみせたり、押しつけがましい表情、そういう卑賤な説明的手段はない。この絶対感こそ舞踊の本質である。ここには充実した感動だけがうごいている。それがたまたま観るものに歓びとして現われ、悲しみとして打ってくるわけだ。(中略)
琉球女性特有の張りの強い、大きな目。見開かれたまま目ばたき一つせず、きっと凝視して動かない。激しいが、不思議にどこも見ていない。もし見入っているとすれば、それは心の中なのだろうか。(127)

沖縄の墓の原初的な感動

私は今まで、エジプトの神殿、アクロポリス出雲大社が神聖だと思っていた。しかし何か違うのではないか。それは人間の意志と力にあふれた表情、いわば芸術の感動ではなかったか。(中略)
沖縄の御嶽でつき動かされた感動はまったく異質だ。何度も言うように、なに一つ、もの、形としてこちらを圧してくるものはないのだ。清潔で、無条件である。だから逆にこちらから全霊をもって見えない世界によびかける。神聖感はひどく身近に、強烈だ。生きている実感、と同時にメタフィジックな感動である。静かな恍惚感として。それは肌にしみとおる。(172-173)

そのほか、壺屋のやきもの、紅型、民謡の声、三線の伴奏などに対する(一部否定的な)印象が語られる。

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)

沖縄文化論―忘れられた日本 (中公文庫)