『抽象の力』岡崎乾二郎 2/3

制作や鑑賞のプロセスを芸術とすること

芸術的経験

ヴァネッサ・ベルは平面的な模様(パターン)がそれだけで対象として芸術的な質を持つとは考えていない。彼女は平面的な模様に見えたものが運動(すなわち移行)し、視点が誘導され奥行き、空間を作りだすこと、その動的な過程こそが美的感動を与える、芸術的経験なのだといっている。つまり芸術は視覚的対象ではない。対象とそれに対する人間の変化それ自体なのだ。……言い換えれば抽象であれ、それが芸術的な質として具体的な働きかけを行う力があるなら、それはやがて具体物となる。逆にそれが起こらないならば、いかなる具象だろうと装飾だろうと抽象だろうと芸術的感動は呼ばない。(164)

現代版画

(内間安瑆の『フォレスト・ビョウブ・ウィズ・ブーケット』について)版画が仕上がってしまえば、今度は見る人間がそれを見る目のチャンネル(版)を変えていく番である。色相や明暗などの視線を仕切るフィルターを変化させていく度に内間の版画は異なる様相を発する。人が見る行為に応じ、次々と変容する色彩の豊饒さ、空間の多様さはまさに自然そのものを観察している現象と同様である。彼の版画が一つのヴィジョンを押しつけることはない。それはあらゆる視点にも対応して答えを発する。そのチャンネルの切り替えを受けとめるものこそ、内間が「空気を入れた」という版と版の間である。(227-228)

自然現象

中谷宇吉郎の雪、中谷芙二子の霧について)霧に神秘はない。曖昧なのは、われわれ人間がそこに見出そうと欲するオブジェクトという概念自体である。霧はたしかに人が抱く、さまざまな観念(あるいは幻想)と、その不確かさを露呈させる。だからこそ、その曖昧さに溺れるのではなく、霧こそを、霧を形づくる無数の粒子の作り出す軽快な運動こそ明視しなければならない。そして、霧(に投影した自らの幻想、観念)に惑わされ視界を曇らせているわれわれの目こそを、晴らさなければならない。(252)

三位一体とエネルゲイア

(三位一体について)ヘシュカスムではこう考える。一つであることはエネルゲイア=働き、活動である。働きは働きの中だけで把握されるのであって、対象としては認識されない。たとえば、y=f(x)という回路において、認識されるのは、x、yで価として現れる数だけである。回路そのものはブラックボックスであり、すなわちそれは暗闇に閉ざされている。この場合、x、yがペルソナであり、回路の働きがエネルゲイアとなる。神の本質とはこの回路=函数の働きそのものである。それを認識することは、この回路の働きに祈ることで一体化すること、この変換過程=エネルゲイアの流れとして自ら身を投じることである。光は見るものではない。光とはエネルゲイアであり、祈るとはそのエネルゲイアの流れに一体化し、光を自らの内部に感じることだ。(365)