『アンダーグラウンド』 村上春樹

2009/9/5鑑賞

私はインタビュイーを前にして、その限られた二時間のあいだに、意識を集中して「この人はどういう人なのか」ということを深く具体的に理解しようとつとめたし、それを読者にそのままの形で伝えようと、文章化につとめた。……
そのような姿勢で取材したのは、「加害者=オウム関係者」の一人ひとりのプロフィールがマスコミの取材などによって細部まで明確にされ、一種魅惑的な情報や物語として世間にあまねく伝播されたのに対して、もう一方の「被害者=一般市民」のプロフィールの扱いが、まるでとってつけたみたいだったからである。そこにあるのはほとんどの場合ただの与えられた役割(「通行人A」)であり、人が耳を傾けたくなるような物語が提供されることはきわめて稀であった。そしてそれらの数少ない物語も、パターン化された文脈上でしか語られなかった。……
私はできることなら、その固定された図式を外したいと思った。その朝、地下鉄に乗っていた一人ひとりの乗客にはちゃんと顔があり、生活があり、人生があり、家族があり、喜びがあり、トラブルがあり、ドラマがあり、矛盾やジレンマがあり、それらを総合したかたちでの物語があったはずなのだから。(28-29)

麻原彰晃の所有する「より巨大により深くバランスが損なわれた」個人的な自我に、自分の自我をそっくり同化させ連動させることによって、彼らは疑似自律的なパワープロセスを受け取ることができる。つまり「自律的パワープロセス対社会システム」という対立図式を、個人の力と戦略で実行するのではなく、代理執行人としての麻原にそっくり全権委任するわけだ。おまかせ定食的に、「どうぞお願いします」と。……
彼ら自身、積極的に麻原にコントロールされることを求めていたのだ。マインド・コントロールとは求められるだけのものではないし、与えられるだけのものではない。それは「求められて、与えられる」相互的なものなのだ。(748-749)

もしあなたが自我を失えば、そこであなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験をおこなうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。
物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔をもった存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実態であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。(749-750)

「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう?麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?……
あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか?あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?(753-754)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)