『ハワーズ・エンド』 フォースター

2009/2/28読了
この小説を紹介した池澤夏樹氏は、次のように述べています。
「違う文化を出自とする人間たちが出会い、愛し合うようになる。しかし人と人の間で文化は衝突し、愛は苦戦を強いられる。」
作品では、知識階級のシュレーゲル家の人々、実務家のウィルコックス家の人々、労働者のレオナール・バストなど、出自が異なる様々な人々が登場し、彼らの擦れ違いが随所に描かれています。
たとえばヘレンが「死」について語ろうとする、しかしそれを聞くレオナードには、観念的な思考を邪魔する、解雇という現実がある。(335) あるいは、ヘレンをハワーズ・エンドに泊らせるマーガレットの提案を、ヘンリーは商業的な提案のように受け取って思案する。(430)
人々の出自からくる根底的な思考枠組みの違いを微細に描いており、性格による擦れ違いは二次的なものであるということが、作者の主張として読み取れるとも思います。
ところで、私はこの本を読みとおすのに、かなり手間がかかりました。それは人々の心理や風景描写を非常に丁寧に描く、著述のスタイルになじみが薄かったからであり、ここに作者の知識階級としての出自が表れていると思います。作者と私自身の出自や文化による差異を感じること、過剰に丁寧に感じられる文体を通しても、そのことを意識させられた作品でした。

ウィルコックス夫人というのは、こっちに近づくような様子を見せて、結局、近づきはしない、決して少なくなくて、あまりありがたくない種類の人間の一人なのだろうかとマーガレットは思った。そういう人間にはわれわれに関心を持たせ、愛情の念を起こさせて、しばらくはわれわれの精神の生活をその周囲に惹きつけて置き、そうしてから離れて行ってしまうのである。そこに肉情の要素が入ってくるときは、それは媚を呈するというはっきりした名前で呼ばれ、これがあるところまで行けば、法律によって罰せられるが、法律も、あるいは輿論さえも、友情の上で媚を呈する者を罰しはしなくて、それでもわれわれがそのために経験する心の疼きや、空しく努力したという感じや、疲労というものは失恋の場合と同じくらい、堪えがたいことがある。ウィルコックス夫人はそういうことをする人間の一人だったのだろうか。(108-109)

ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)

ハワーズ・エンド (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-7)