プロフェッショナルの条件/ドラッカー

2007/11/17-12/8
ドラッカーの「自己実現」をテーマにした論文集。どのテーマも興味深く、繰り返し読むに値する本だと思う。
今回、特に次の三つの部分が印象に残った。

新しい仕事が要求するものを考える

「私は新しい仕事を始めるたびに、「新しい仕事で成果をあげるには何をしなければならないか」を自問している。もちろん答えは、そのたびに違ったものになっている。」(104)
「一〇年あるいは一五年にわたって有能だった人が、なぜ急に凡人になってしまうのか。私の見てきたかぎり、それらの例のすべてにおいて、原因は、昇進した者が、ちょうど私が六〇年以上前、あのロンドンの投資銀行に入ったばかりのころにしていたこととまったく同じことをしていることにある。彼らは、新しい任務に就いても、前の任務で成功していたこと、昇進をもたらしてくれたことをやり続ける。そのあげく、役に立たない仕事しかできなくなる。正確には、彼ら自身が無能になったからではなく、間違った仕事の仕方をしているために、そうなっている。」(104)

書きとめておく

イエズス会の修道士やカルヴァン派の牧師は、何か重要な決定をする際に、その期待する結果を書きとめておかなければならないことになっていた。一定期間の後、たとえば九か月後、実際の結果とその期待を見比べなければならなかった。そのおかげで、「自分は何がよく行えるか、何が強みか」を知ることができた。また「何を学ばなければならないか、どのような癖を直さなければならないか」、そして「どのような能力が欠けているか、何がよくできないか」を知ることができた。」(105-106)

テクネ――教育ある人間の条件

「われわれは、多様な知識に精通した博学は必要としていない。事実、そのような人間は存在しえない。逆に、われわれの知識はますます専門化していく。したがって、われわれが真に必要とするものは、多様な専門知識を理解する能力である。そのような能力をもつ者が、知識社会における教育ある人間である。
われわれは専門知識のそれぞれについて精通する必要はないが、それが「何についてのものか」「何をしようとするものか」「中心的な関心事は何か」「中心的な理論は何か」「どのような新しい洞察を与えてくれるか」「それについて知られていないことは何か」「問題や課題は何か」を知らなければならない。
これらについての理解がなければ、自らの専門知識が不毛となる。専門知識でさえなくなる。知的な傲慢とはなっても、生産的な存在ではなくなる。なぜならば、今日、重要な新しい洞察の多くが、まったく別の専門分野、別の専門知識から生まれているからである。」(224-225)