『現代思想の冒険者たちSelect フーコー』 桜井哲夫

何年かに1回は触れたくなるフーコーの思想。レヴィ=ストロースを読んだ流れから、この本を読んでみた。
フーコーの思想だけではなく、その人生についての記述も多く、著者のいうように自らの内面への問いが、彼の哲学を形成してきたことが明らかになっている。
特に興味深い記述は以下の通り。
フーコーの二〇世紀の芸術運動への興味(シェーンベルクの音楽など、中心の存在しない芸術)。(72)
バシュラールの非連続的歴史観。そのフランス現代思想への影響。(80)
・カンギレムの思想。「概念」がいかに形成されたかを発見すること。(102)
歴史学とは「まなざし」の形成を明らかにすること。(125)
フーコーマルクス経済学の解釈。始原としてのロビンソン=クルーソーの拒否。彼は経済学者ではなく、思想家としてのマルクスを評価していた。(141)
以下3点は、『言葉と物』の読解から。
・ヴェラスケスの絵の解釈。単一で独立した人間という「主体」が存在しないこと。(152)
マルクスリカードの理論展開は、同じ構造に基づいた二つの解釈にすぎない。「希少な資源に取り囲まれ、有限な寿命を持った人間が、労働を通して繰り広げる生存競争の歴史」として経済生活を見ている。(162)
・「機能、対立=紛争、意味づけ」に代わる「規範、規則、システム」という観点からの分析。それにより、たとえば文化人類学が発見した民族社会のシステムのように、二分法では見えなかった無意識的な構造の分析が可能となった。(171)
・『知の考古学』-それまでの仕事の定式化=言説・発言行為の集合、その社会的文脈をの探求すること。(193)
・1968年の革命の「主体信仰の最後の爆発」という解釈。ラカンの次の言葉。「革命家として君たちが望んでいるのは、支配者なのだ。君たちは支配者になれるだろうよ。」(204)
・1970年頃からは「権力」というテーマが強く打ち出されてくる。アルチュセールイデオロギー論と関連して。また、ここでの「権力」は、フーコースウェーデンポーランドチュニジアで感じた違和感の源泉となるものである。(216)
・「普遍的知識人(=サルトル)」の流儀への批判。特定領域の知識人が横に連帯することが、新しい社会運動のあり方。(226)
・正常/異常、正当/異端を決定しようとする「規格化」の権力の拡がり。これが近代社会の監禁のネットワークとなっている。(238)
・性の肯定は、解放ではない。それは、性への欲望をかきたてる権力装置(ビオ・ポリティック)に、われわれがからめとられていることを映し出すだけである。「性の装置に対する反抗の拠点は、欲望としてのセックスにあるのではなく、身体と快楽なのである。」
・『快楽の活用』『自己への配慮』は、今までと違ったやり方で考え、認識しようとした結果の書物。それは、閉ざされた監視社会としての近代社会からの脱出の道のひとつの提示。(272)
ここまで、書いてみると、フーコーが20世紀の最高の知性を平らげ、格闘してきたこと、アクチュアルな社会問題にも積極的にかかわりつづけたこと、さらに今までとは違うやり方で社会変革を成し遂げようとしたことが分かる。
私がフーコーの著作に関しては、『言葉と物』を途中まで読んで、挫折した経験しかない。また、以前読んだ入門書にも書いてあったが、フーコーの言っていることは、決して難しいことではない。だからこそ、解説本をよんでわかった気になってしまうきらいがあるのだ。
しかし、それは不誠実な態度だと思うし、何よりもったいない。本書のように、誠実な態度で著されたものを読むと、あらためてそう感じるのだ。

フーコー (「現代思想の冒険者たち」Select)

フーコー (「現代思想の冒険者たち」Select)