細雪/市川崑

2008/2/23
この映画には、独特の浮遊感が漂っていると感じた。舞台は現実の大阪や京都であるのに、どこか別世界の出来事のような印象を受けるのだ。そう感じさせる原因について、次のように考えてみた。
映画の舞台は昭和一三年の大阪、公開は四五年後、昭和五八年である。そして、私はその二五年後の平成二〇年にこの映画を見ている。
映画が撮影された時代には、舞台となる昭和一三年の残滓は、かろうじて見つけられたであろう。しかし、それらの残滓から実際の昭和一三年を感じることはできなかったはずだ。蒔岡家のような旧家はすでに無く、彼らが歩んだ生活も、リアリティを失っている。それらは、当時の映画人たちがある種の憧れを持って、見いだしたものでしかない。
そして、平成二〇年に映画を見ている私も、作品が公開された昭和五八年という時代に対し、似たような印象を抱いている。当時の時代性とは、たとえば、カメラワークや、シンセサイザーを用いた音楽に見いだされるものだ。しかし、現在に残る当時の残滓からは、二五年前という時代を感じることはできない。
古い時代を描いた古い作品ならば他にもある。しかし、この映画だけが独特の浮遊感を感じさせるものは、それが昭和一三年、昭和五八年、平成二〇年という時代に配置されたときに、初めて出てるものであろう。以前の時代を知ることはできても、あるいは時代の遺物は残っていても、実感として感じることはできない。いうなれば、二重の意味でノスタルジアの向こう側にあるものを見ている結果、現実との地続きのなさが感じられてくるのであろう。