ウェブ社会の思想/鈴木謙介

2007/10/21-10/30

手に届きそうな未来

「『シガテラ』が描こうとしている未来とは、カーニヴァルによってテンションを高めて、未来へ向けて驀進することでも、そうしたカーニヴァルによって未来を選ぶことを諦めてしまうことでもなく、「手の届きそうな未来を、少しずつでもいいから選び取る」ということだったのではないか。そのことによって、まだ島宇宙の外側の可能性は見えていないものの、はじめて荻野は「大人」として未来を選択できる可能性を手に入れるのである。(中略)
だが、そこで目指される未来は、結局のところ宿命の島宇宙の外側へと出て行くものになり得ているのだろうか。N町の少女も住田も、そして荻野も、ここまでの検討では、「自分で選んだもの」とも「あらかじめ与えられていたもの」ともつかない、内発的な動機付けにしか根拠を持たない未来の選択の前で、浮かれたり失望したりしているだけのように見える。」(149)

大きな物語から小さな真実へ/『現実』の時代

「もはやこういう状況では、「物語」という言い方すら、ふさわしくないのかもしれない。というのも、物語、つまり「おはなし」であるということは、これがフィクション(ウソ)であるという判断を、その中に含んでいるからだ。わたしの信じている価値は、わたしにとって絶対的なものであり、他人に否定されるいわれはない。大きな物語があったという記憶すら失われた、文字どおり「ポストモダン」な時代は、むしろ「小さな真実」が無数に跋扈する時代だと言うことができる。
この「小さな真実」は、ここまで述べてきた、人びとがめいめいの引き出した「事実」を元手に生きる<現実>と対応している。そこでは、自らの生きるセカイが、物語であることを自覚することすら不可能になり、代わってその<現実>を下支えする情報環境の方が、基礎インフラとして迫りだしてくるのである。」(228)

宿命論的な世界を生きる希望とは

「宿命が、実体として重みを持ったものではなく、私たちが生きている社会的な関係から生み出されたもの、言い換えれば、私たちが私たちに見せている夢(物象化)なのだとすれば、その「外に出る」のではなく、それを見せている関係の方が変わらなければ、宿命の意味も変わらないということになる。ここで言う「関係」とは、人間関係のことだけを指しているのではなく、物事とのかかわり方すべてのことである。
関係のあり方が変化することが、宿命を変化させるための条件なのだとすれば、必要なのは、宿命=夢のセカイの外側に、固定化されることのない関係が担保されていることであるはずだ。このことはとりもなおさず、情報化によって生み出される宿命が、関係の変化によって書き換えられていく可能性にこそ、宿命論的な情報化の世界を生きる希望があるのだという結論を導く。
その「希望」のありようとはいかなるものか。宿命によって世界の運動が停止させられないということは、すなわち人が宿命の中を生きながらも、そこで成長できるということである。」(240)

持続に基づくコミュニティへ

「つまりこういうことだ。ある<現実>を生きているネット上のサークルが、自らの主張を他者に認めさせたいという欲求に基づいて、異なる主張をするブログを炎上させたり、ビラまきなどの活動を行ったりするとしよう。その過程で彼らは、どうしても、自分たちより先に、あるいはどのくらいかは分からなくても、とにかく自分が生まれるずっと前から存在していた、別の主張を持つ集団ともかかわらなければならなくなるだろう。そのとき、二つの集団の乗り越えられない差異として現れる「長い時間をかけて続いてきた」という、漠然としてはいるが、ごまかしようのない「事実」こそが、彼らを別の<現実>へと開いていくのではないか。
そして、その「時間的な持続」という事実を獲得することは、結局のところ、「過去」や「未来」の見ず知らずの他者に対する関係を要求するということにほかならない。情報化によって私たちがどのような<現実>を生きるようになろうとも、いやそれゆえにこそ、恣意的に選び取ることの不可能な事実を元手にした関係に、重要な意味が生じる。「関係への<宿命>」とは、こうした貨幣や時間といった、自ら選ぶことができないが、私たちがかかわらざるを得ないものを媒介に成り立っているのである。」(255-256)