カント『純粋理性批判』入門/黒崎政男

2007/10/7-10/30

時間とは?空間とは?

「分かりやすく言えば、時間・空間は、ものそのものが成立するための条件ではなくて、ものについての人間の認識が成立するための条件である。つまり、時間・空間はものの側にあるのではなくて、認識する側にある存在である、ということなのである。
つまり、カントによれば、世界についての人間の認識が成立するためには空間・時間は不可欠であるが、世界そのものが成立するためにそれらが不可欠であるとは言えない、ということになる。客観的存在としての時間・空間ではなく、世界を時間・空間という人間認識の枠を通して見る、ということなのである。」(104)

超越論的観念論

実在論、観念論といっても、いかなる意味でそうなのかが重要である。カントはみずからを「超越論的には観念論」だが「経験的には実在論」と位置づける。カントによれば、最悪なのは、「超越論的には実在論」をとり「経験的には観念論」をとる思想だ、ということになる。
つまり、時間・空間は、本来的にそれ自身として存在しているが、経験的場面においては、それは不確かなものである、と考える思想が、カントともっとも敵対することとなる。カントによれば、超越論的には、時間・空間は、単なる表象の形式にすぎないのだが、経験の次元においては、われわれの主観とは無関係といってもいい形で確実、客観的なものとしてある、ということなのである。」(108)

感性・悟性の統合

「次の区別は、カント認識論が成立するための基本中の基本である。
――ところで、経験はきわめて異なる二つの要素、つまり、認識の<質量>と、この質量に秩序を与える<形式(形相)>とを含んでいる。
認識の材料(つまり<質量>)などは確かに、感性の受容性によって、世界から受けとる。しかし、そのまったくの素材(単なる「多様」)に、形や脈絡を与える(つまり<形相>)のは、主観の側の自発性の能力なのである。つまり、ここで、「感性の受容性」と「悟性の自発性」がくっきりとした二元性をなしていて、それとともに、経験の二側面として、経験の質量的側面と、形相(形式)的側面があることになる。
多様なもの、素材、混沌的材料は、確かに世界から受けとらざるを得ない。この材料まで自己認識によって生み出すような知性(例えば、神的知性)なら、感性と悟性(知性)の統合によって初めて認識が成立する、なんていう回り道はしなくてすむだろう。だが人間の知性はそうではない。感性によって受けとった素材、混沌を、何か意味あるもの、脈絡あるものとして関与するのが、悟性の力、具体的にいえば、純粋悟性概念なのである。」(122-123)

純粋理性批判』が伝えたかったこと

「超越論的論理学、つまり、『純粋理性批判』の基本的なねらいは、「対象についての我々の認識の根源」を問題とすることであり、ここでは、もはや個々の認識の真偽が問題なのではない。そもそも人間による客観的認識とはいかなるものでなければならないのか、ということ、そして、すべての真なる認識も偽なる認識をも可能にする条件を問題にしたのである。
だから、<超越論的真理>に矛盾するような“認識”はそもそも認識ではない。それは最初から、真とか偽とかであるいかなる可能性も有してはいないのである。
カントが確立した経験の地平は、したがって真なる認識も偽なる認識をも許容する、というか、むしろそれらを初めて可能にする地平なのである。この地平の上でのみ、我々は初めて認識の客観的妥当性を主張しうる。その主張はあるいは誤謬であるかもしれないが、この主張の修正・改変は、「超越論的真理」を前提にして初めて可能なのである。」(184)