天使の王国/浅羽通明

2007/11/3-11/10

天使としてのおたく

「学校社会による汎正解化によって、「おたく」は世界の傍観者と化した。彼の眼からはすべてが俯瞰されるが、彼自身はすでに世界の中にはいない。そう『ベルリン・天使の詩』の天使たちのように。「おたく」は「おたく」自身の姿をも俯瞰し、パロディ化する。ロリコン青年を嘲笑するマンガを掲載した同人誌は多い。(中略)「おたく」は「おたく」としての当事者性さえも引き受けようとしない。いつでもどこでも当事者とはならない傍観者である彼らは、認識するのみであるから傷つかず、経験せず、成長しない。
思えば、これは近代インテリの原型ではなかったか?世の中の当事者となることからどこまでも逃避せんと、結婚と就職から逃げ回るインテリ青年代助を、書生門野が羨望する。(中略)高度成長と学歴化の徹底はついに膨大な代助を生んだのだ。」(167-168)

八〇年安保

「メジャー不在の大空位時代にあっては、あらゆる新しいものがマイナーのままでメジャーだった。正義も真理も大芸術も滅び、世の中は、面白いもの、かっこいいもの、きれいなもの、笑えるもの、ヒョーキンなものを中心に回るしかない。この幸福な季節を、橋本治中森明夫は八〇年安保と呼ぶ。」(199)

新聞投書に見る「発言したい欲望」

「まさに、「たしかな意見で個性に自信」というわけだ。
マクロな問題への関心へ彼らを駆り立てているのは、消費への欲求、それも個の欲望が衰弱した後、一般社会的にその方向が規定されるようになった消費欲求こそがネオ社会派の背景なのである。
このブランドとしての意見で自己確認される個性とは、これまでずっと紹介してきた新聞投書――怒りや悲しみといった感情から道義的要求を政府へ突きつける文章――の書き手が、論壇知識人たちの言葉に唱和することで身にまとってきた代物にほかならない。」(279)
「「無力だけど、戦争阻止のために何かしなければ」というが、間を飛ばしてはいけない。「無力だから」「まず力をつけて」「それから、その力を用いて戦争を阻止しよう」でなければならない。」(291)