『クォンタム・ファミリーズ』 東浩紀

2011/2/12読了
ここ数年、この本の著者の発言や著述を見てきたが、数年来考えられてきた内容が結実された作品であると思えた。それらは「別のようでありえた未来」や「近未来予想」や「郊外の変容・ショッピングモールの描写」や「思想界、ネット論壇の戯画化」として、小説内に埋めこまれている。
そのうえで、あえてジャンク的とも受け取れる描写を用い、現代に生きる実存的な態度を、複数の登場人物の言葉で述べている。
著者は数年前の著作で、ライトノベルやゲームのジャンク的な想像力の強さ、そのアクロバティックな内容を紹介していた。この小説は複雑な内容をもち、また思想的なテーマを意識的に織り込んだ内容のため、作者が紹介した作品ほどの強い感染力を持ち得ないかもしれない。ただ、物語の想像力、構想力は単純にすごいと思える。

幸せとは、ひとがその固有の運命の鎖から解き放たれることだと定義した思想家がいる。もしその定義が正しいのであれば、新しい世界でのぼくはまさに幸せだった。ぼくの生活は、文字どおり運命の鎖から解き放たれていた。
ぼくはその幸せを守りたいと考えた。
これが夢なのであれば、夢から覚めたくないと考えた。(96)

理樹たちは、あらゆる可能性に介入することができる世界に生きていました。あらゆる人生の可能性、あらゆる決断の可能性をリテイクできる時代に生きていました。それは夢の世界でした。
けれども、とわたしは思いました。けれども、彼らはその技術の使い道をまちがっている、解釈を誤っている、貫世界通信は別の人生を夢見るためにあってはならない。この人生を肯定するために使わなければならない。わたしはそのとき、はじめてそう確信を抱きました。
わたしの世界が消えてもわたしの経験は残る。
わたしの現実が消えてもわたしの痕跡は残る。
娘が残る。
あなたが残る。
あなたのなかに刻まれたわたしの痕跡が残る。
わたしはもっと早くそのことに気づくべきでした。(237)

ぼくはさまざまな人生を生きる。あるときは幸福なあるときは不幸な人生を生きる。それは驚くほど豊かだけれど、また驚くほど貧しい世界で、順列の種類は信じがたいぐらいに限られている。運命を受け入れるとは、過程を受け入れることでも結末を受け入れることでもなく、おそらくはその数学的な限界を受け入れるということなのだ。人間は数学には抵抗できない。そして抵抗しても意味がない。二かける二は断固四であり、それはドストエフスキーの時代もいまも変わらない。ぼくは、どの人生を選んだとしても、渚と友梨花と風子と理樹が作り出す四角形から決して逃れることができない。
そしてそれでいい。
ぼくはなにも引き受けなくていい。
父の役割も夫の義務も強姦者の容疑もなにも引き受けなくていい。
ぼくはただ愛するものだけを愛せばいい。(352)

クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ