『<アンチ・オイディプス>入門講義』 仲正昌樹 5/5

社会とつながる無意識

・社会に繋がった各人の無意識は妄想を介して、社会のいろいろな場に「備給=投資」されたり、脱備給されたりする。妄想は「隔離的segregatif/遊牧的nomadique」が潜在的に存在する二極で、それぞれが政治的に極端な方向に走ると、「ファシズムパラノイア的」な型と「革命的分裂者的」な型として現れる。精神病や神経症は、社会的な妄想に見られる、無意識の欲望の偏りとか噴出と見なすことができる。(323)
マルクスは、貨幣価値で表象される“労働”と現実の「労働」のズレを指摘したが、D+Gは同じことを「欲望」で行なう。古典派やマルクス経済学では「労働」を工場労働に限定して考えたが、現代ではサービスや知的労働など、労働の概念は広くなっている。「欲望」もエディプス的な家族をめぐる表象に限定して理解しつづけるわけにはいかない。(344)
・「労働」を資本の公理系に、「欲望」をエディプス的家族の枠に押し込んで分断してしまい、脱領土化を制限するのが「社会的疎外」である。その「欲望」が家族の枠内に収まらないと、社会的な脱領土化とは関係のない、「心の病」として処理される。『失われた時を求めて』の話者のように、いろんな大地を渡り歩くうちに、新しい大地が作り出される可能性は考慮に入れられない。(354)

「構造」を取りはらう

・「ファルス」は人間の精神の発達を支配する原理として、万人にアプリオリに備わっているわけではない。ただし、「ファルス」がいったん導入され、私たちの表象系の中に定着すると、全ての欲望、あらゆる意味作用の中心であるかのように機能する。構造主義の「構造」も、私-君-彼女といった人称的関係も、「ファルス」によって事後的にモル上に固められて、それらしく作用するようになっただけのもの。単なる「概念」が実体化し、「無意識」さえも支配している。(364)
・D+Gは、モル的組織、つまり「社会的機械」の存在を全否定するわけではない。モル状になって作用し、ときとして無意識を罠にかける「社会的機械」の存在自体が問題なのではなく、それと一見分子的にふるまう「欲望機械」との関係が見えにくくなっていることを問題とする。(380)
フロイトが「性愛」を汚らしいイメージの中に封じ込めたのは、彼自身が男女の淫らな秘め事のような、ステレオタイプのイメージしかもっていなかったからである。絵画は、画家たちが従来持っていた「具象性」についての狭いイメージを脱して、もっと多様な見え方、見ることをめぐる欲望とその表現可能性を追求してったが、精神分析も同じように、性愛に関するイメージを変えるべきである。(398)
・D+Gは、まず「無意識」が家族的な関係性から発生するという前提を取り去る。そして、リビドーが「パラノイア的、反動的、ファシズム的」な極と、「分裂気質の革命的」な極にの双方に注入され、この二つの傾向のせめぎ合いとして、欲望機械の動向を分析する。エディプス的現象も、この二つの傾向のせめぎ合いとして説明できる、という立場をとる。(411)